衛藤宏章さん 別府市駅前本町・ちとせ旅館
風呂場のガラス戸を開けると、ほんのりと甘い香りが漂ってきた—。ここは下町情緒あふれるレトロな旅館が軒を連ねる別府市駅前本町の「ちとせ旅館」。案内してくれた衛藤宏章さん(26)は「この浴槽の縁に付いた析出物の手触り。湯の苦味や渋味。癒やされますね」と全身で湯を楽しみながら、長くゆっくりと息を吐き出した。
泉質は無色透明の重炭酸土類泉。ナトリウムやカルシウムなどを豊富に含む。これらの成分が浴槽の周囲に付着、長い年月をかけて黄土色に色を付けてきた。見れば見るほど芸術作品のようで、旅館の歴史と風情を象徴している。
実は衛藤さん、22歳で持病の緑内障が悪化し、現在は全く目が見えない。血気盛んな20代に失明して落ち込んでいた頃、身と心を癒やしてくれたのが温泉だった。温泉の成分に特に敏感だ。研ぎ澄まされた舌と耳、肌で感じる感覚で湯を"味わう"という。
「ここの湯は成分がとても濃く感じる。肌触りはとても滑らかで優しい。落ち着いた雰囲気もヒシヒシと伝わってくるので、お気に入りなんです」
同旅館街は戦前、遊郭地としてにぎわった地域。戦後すぐに大半が旅館に転業し、現在に至る。「道を挟めば全く違う」という泉質の豊富さと、多くが2千円代と格安の宿泊料を設定しているのも魅力で、もちろん入浴料も手ごろだ。
ただ、年季が入り過ぎていて、「いちげんさんお断り」と言わんばかりに若者などが気軽に立ち寄りづらい雰囲気が玉にきず。ちとせ旅館を約60年間切り盛りする石井清恵代表(91)は「うちは誰が来ても大歓迎。狭い場所ですが、のんびりと漬かって体の芯から温まってほしいんだよ」と優しい笑顔で答えてくれた。
えとう・ひろあき 大分市出身。宮崎大学、県立農業大学校卒。車椅子利用者の温泉入浴を助けるNPO法人「ゆぴあ」理事。別府八湯温泉道の視覚障害者名人。
データ
ちとせ旅館(TEL0977・22・0746)は年中無休。立ち寄り湯は200円。素泊まりは2500円、休憩は2時間2千円。浴室は4畳半と狭く、利用前に予約すれば貸し切りにできる。