前日の18日に続き、米艦隊から発進した爆撃機や戦闘機が九州、四国を空襲。広島県の呉軍港にも猛攻を加えた。...
町で暮らす子どもに爆撃機が迫ってきた。 1945年3月18日は日曜日だった。午前9時前、友達と遊ぼうと、大分市中心部の近くに住んでいた外山(とやま)健一さん(87)=別府市馬場=は自宅から外に出た。 「ブーン…」。うなるような低音...
大分合同新聞はきょう18日から「おおいた戦後80年 空襲の記憶」の企画を始めます。県内を目標にした組織的な空襲は1945年3月18日に始まり、終戦前日の8月14日まで各地が銃撃・爆撃に見舞われました。80年前に空襲があった同じ日付の紙面で...
時刻は朝九時ごろだったと思います。長男が国民学校の六年生だったので、それを送り出して、やっと朝の支度が終わった頃でしたから。 家には七歳、五歳、二歳の娘三人がいました。 空襲が、敵機がきょう来るかあす来るかといったうわさや、ささや...
激動の100年を生き抜いた村山富市元首相(100)が、戦後80年の節目を迎えるに当たり、大分合同新聞の取材に文書で応じた。戦中・戦後の経験を「死んだ友人たちのことを思い、戦争なんか絶対にしちゃあいかんと心に刻んだ」と回顧し、今も戦火が続く...
村山富市元首相が大分合同新聞に宛てた文書は次の通り。(原文をそのまま掲載しています) 1944年、19歳の私は明治大学在学中で、日本中が戦時体制の下、勤労動員で石川島造船所で汗を流す軍国少年の一人でした。20歳になると徴兵検査を受...
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