宇佐海軍航空隊は県内で唯一、航空機による特攻隊が組織的に編成された。 戦局の悪化が続いていた1945年2月、日本海軍はパイロットを養成する各地の航空隊に特攻訓練の実施を指令。宇佐航空隊は110人が割り当てられた。 宇佐市教委によると、宇佐航空隊は3月26日、特攻訓練が終了し「八幡護皇(はちまんごおう)隊」を編成。4月1日に第1次の隊員として藤井真治(まはる)大尉らを指名した。翌2日に串良(鹿児島県鹿屋市)の基地へ移動して待機し、宇佐から国分(同県霧島市)へ移った部隊と共に6日に沖縄へ向けて出撃した。 藤井大尉が乗った攻撃機(3人搭乗)は午後6時37分、「攻撃目標空母」と打電し、突入の際にモールス信号のキーを押し続ける長符連送を最後に通信が途絶えた。米軍側に被害の記録はなく、撃墜されたとみられるという。 「八幡」の名を冠した宇佐航空隊の特攻隊は5月11日までに、沖縄方面へ計6回出撃。81機の154人が亡くなった。全員の名を刻んだ碑が現在、宇佐市城井の城井1号掩体壕(えんたいごう)史跡公園に立っている。 このほか、大分市牧の大分県護国神社には「特攻勇士」の像と、県出身の特攻隊戦没者として120人を記した碑が並ぶ。航空特攻だけでなく人間魚雷「回天」や特殊潜航艇の戦没者も名を連ねている。■45年4月6日「大規模作戦開始の日」 1945年4月6日は、沖縄方面で日本の陸海軍が連携して大規模な航空特攻作戦を始めた日だった。同1日に米軍が沖縄本島への上陸を開始。沖縄戦が事実上終結した6月下旬まで特攻作戦は繰り返された。 防衛省の防衛研究所(東京)が公開している「戦史叢書(そうしょ)」によると、4月6日だけで陸海軍のおよそ245機・363人が特攻。体当たりを受けた駆逐艦など少なくとも米軍の艦艇二十数隻が沈没、損傷した。 日本海軍の戦艦「大和」も6日午後、沖縄へ向かうために山口県徳山沖から出航。夕方から夜にかけて豊後水道を通過して日向灘へ出た。翌7日、九州南西沖で米軍機の攻撃に遭い撃沈された。 沖縄方面では3月から6月まで、陸海軍合わせて1860機以上の航空機が特攻。搭乗員2820人以上が命を落とした。
17日付の紙面はこちら