九州沖を航行する米艦隊から発進した艦載機が、前日に続いて各地の航空基地を攻撃した。 宇佐基地には138機が来襲。...
豊後水道の防衛を担っていた日本海軍の佐伯防備隊と佐伯航空隊が、米軍機による猛攻を浴びた。...
宇佐市の地域おこし団体「豊の国宇佐市塾」(平田崇英塾頭)は10日、太平洋戦争中と終戦直後に米軍が撮影した映像14本(計20分35秒)を報道機関に公開した。大分県関係は、大分市坂ノ市出身の機長が乗った偵察機「彩雲」が攻撃を受ける映像があった...
大分市中心部の市街地が米大型爆撃機B29の投弾を受けた。...
県内で米大型爆撃機B29の2機が撃墜された。 中津市三光の八面山には、日本軍の戦闘機「屠龍(とりゅう)」の体当たりを受けた1機が墜落。佐伯市弥生宇藤木の山中にも、戦闘機「紫電改(しでんかい)」の攻撃により1機が落ちた。合わせて米兵22...
米大型爆撃機B29の編隊が、大分、熊本県境付近の上空で日本軍の戦闘機「紫電改(しでんかい)」の追撃を受け、1機が竹田市平田の山中に墜落した。落下傘で脱出して捕虜となった米兵が、九州帝国大(現九州大)で生体解剖実験を受けるなどして犠牲になっ...
【別府】太平洋戦争の終戦後に進駐した米軍の将校で、別府大の創設にも関わった故ビンセント・エスポジットさんの次女キャサリンさん(70)=米ハワイ州=が4月、家族と来日し、別府市で父の足跡をたどった。...
米大型爆撃機B29の編隊が佐伯市に飛来し、佐伯駅周辺や市街地に爆弾を落とした。現中村西町の本馬場通り沿いにあった防空壕(ごう)に直撃し、避難していた多くの住民が即死。他の被害を含め市民46人が亡くなった。隣の東上浦村(現佐伯市上浦)でも浪...
広島原爆について語るシンポジウムが19日、大分市府内町のコンパルホールであった。...
1945年4月21日に宇佐市(当時の柳ケ浦町)であった空襲の体験談を、本紙連載企画「大分の空襲」(73年8~9月)から抜粋して再掲します。 防空監視哨(しょう)長清水忠直さん(日輪寺住職)は自宅から二キロ離れた妙見池畔の監視哨任務につ...
1945年4月21日は、米大型爆撃機B29による空襲で大分市と柳ケ浦町(現宇佐市)に大きな被害が出た。 大分市は同日午前、大分駅の機関庫や金池南などの一帯が爆撃を受け、時限爆弾も交じっていた。金池国民学校の児童1人や機関庫の職員、住民...
太平洋戦争末期の1945年4月21日、大分市にあった軍直轄の工場「第12海軍航空廠(しょう)」に空襲があり、学徒動員で働いていた大分中(現・大分上野丘高)の生徒18人が亡くなった。今月17日、犠牲者を追悼する慰霊像を同高の生徒たちが清掃し...
【日出】戦後80年に合わせて日出町教委は、戦争と同町に関連する情報や資料を集めている。...
太平洋戦争で沖縄を巡る戦闘が激化していた1945年4月6日、宇佐海軍航空隊の神風特攻隊「八幡護皇(はちまんごおう)隊」が、鹿児島県内の基地から初めて出撃した。米軍を主体とする連合国軍の艦隊に体当たり攻撃をかけようと、沖縄へ飛んだ29機の隊...
藤井真治(まはる)大尉が特攻出撃前に記した遺書と手紙は次の通り。(宛名、署名は省略) 【4月2日】 ▼家族全員宛て 之(これ)から第一八幡護皇隊員として特別攻撃に出発します。 必死必中体当り。 隊長として行きます。 親不孝...
宇佐海軍航空隊は県内で唯一、航空機による特攻隊が組織的に編成された。 戦局の悪化が続いていた1945年2月、日本海軍はパイロットを養成する各地の航空隊に特攻訓練の実施を指令。宇佐航空隊は110人が割り当てられた。 宇佐市教委による...
大分東明高の元教諭で、退職後は歴史研究家として活動する軸丸浩さん(64)=大分市横尾東町=が、「十五年戦争と軍都・佐伯 ある地方都市の軍国化と戦後復興」(弦書房・税込み2200円)を出版した。1930年代に海軍航空隊が設置された佐伯町(当...
米大型爆撃機B29の編隊が初めて県内を空襲した。 大分市の大分海軍航空基地が目標になった。...
太平洋戦争末期の1945年8月8日、日田市鶴河内の山中に交戦中のゼロ戦が墜落した。大分合同新聞と、戦争資料の収集に取り組む「豊の国宇佐市塾」は連携し、今月1日、落下地点を探索した。金属探知機を使って一帯を調べ、機体の部品や銃弾の薬きょうな...
宇佐市の地域おこし団体「豊の国宇佐市塾」(平田崇英塾頭)は22日、太平洋戦争中に米軍が撮影した映像12本(計3分56秒)を報道機関に公開した。大分県関係は2本で、日田市の山中に墜落したゼロ戦との空中戦を撮ったものと、宇佐市の宇佐海軍航空隊...
前日の18日に続き、米艦隊から発進した爆撃機や戦闘機が九州、四国を空襲。広島県の呉軍港にも猛攻を加えた。...
町で暮らす子どもに爆撃機が迫ってきた。 1945年3月18日は日曜日だった。午前9時前、友達と遊ぼうと、大分市中心部の近くに住んでいた外山(とやま)健一さん(87)=別府市馬場=は自宅から外に出た。 「ブーン…」。うなるような低音...
大分合同新聞はきょう18日から「おおいた戦後80年 空襲の記憶」の企画を始めます。県内を目標にした組織的な空襲は1945年3月18日に始まり、終戦前日の8月14日まで各地が銃撃・爆撃に見舞われました。80年前に空襲があった同じ日付の紙面で...
時刻は朝九時ごろだったと思います。長男が国民学校の六年生だったので、それを送り出して、やっと朝の支度が終わった頃でしたから。 家には七歳、五歳、二歳の娘三人がいました。 空襲が、敵機がきょう来るかあす来るかといったうわさや、ささや...
激動の100年を生き抜いた村山富市元首相(100)が、戦後80年の節目を迎えるに当たり、大分合同新聞の取材に文書で応じた。戦中・戦後の経験を「死んだ友人たちのことを思い、戦争なんか絶対にしちゃあいかんと心に刻んだ」と回顧し、今も戦火が続く...
村山富市元首相が大分合同新聞に宛てた文書は次の通り。(原文をそのまま掲載しています) 1944年、19歳の私は明治大学在学中で、日本中が戦時体制の下、勤労動員で石川島造船所で汗を流す軍国少年の一人でした。20歳になると徴兵検査を受...
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