<別府市 飯田哲朗さん> 真夜中の県都に2万発の焼夷(しょうい)弾が降り注いだ。太平洋戦争末期の1945年7月17日未明にあった大分大空襲。中学3年だった飯田哲朗さん(94)=別府市山の手町=は、現在の大分市都町で爆撃に見舞われた。「経験した者でないとこの怖さは分からない。よく生きていたなと思う」。街が炎に包まれた一夜を振り返った。 都町のほぼ中央にあるジャングル公園。95年、リフレッシュ整備に伴う発掘調査で、空襲によって焼けた屋根瓦や土、炭化した木材などが地中から大量に出てきた。街が戦火で焼き払われた名残だった。 戦時中、飯田さんは現在の公園がある場所のすぐ東隣に住んでいた。両親は料亭「菊水」を経営し、軍関係者がよく利用していた。 45年7月16日夜、空襲警報が鳴った。「それまで空振りがずいぶんあったけど、今回はどうも本物らしいというニュースが伝わってきた」。米大型爆撃機B29の大集団が、大分市上空に迫っていた。 焼夷弾は、ザーッという激しい雨のような音とともに落ちてきたという。「音がパッと止まると、辺りにバラバラバラッと飛んできた」と話す。 米軍の記録によると、着弾後にゼリー状の油脂燃料が飛び散って燃焼する「ナパーム弾」が使われていた。あちこちで火が上がり、「危ない」「逃げろ」と声が響いた。■父怒り「こんな戦争しやがって」 空襲に備え、母と長女は幼いきょうだいを連れて別府市亀川へ身を寄せていた。大分大空襲の当日、残っていたのは飯田さんと父、次女の3人だけだった。 焼夷(しょうい)弾の爆撃が始まり、慌てて家を飛び出した。燃えだした自宅にバケツで水をかけていると、父から「菊水を見てこい」と言われた。営んでいた料亭にも火が回っていた。自宅から150メートルほど先にあり、行ってみても火の勢いに阻まれて近寄れなかった。 「炎がごんごん上がっている。焼夷弾もばんばん落ちてくる。それはもう怖かった」 街に広がる炎は止めようがなかった。飛び散った焼夷弾の燃料は建物や体に付くと水をかけても消えず、紫の火が再びチリチリと燃え上がった。 夜明けになり、まだ火が残る中を南西の大道町方面へ避難した。けががなかったのは幸いだった。自宅は全焼、菊水もほとんど焼け落ちた。「こんな戦争をしやがって」。父の怒りの声が耳に残っている。 80年がたった今も、世界では依然として戦火が絶えない。 「そういう国の人はかわいそうだなと心から思う。自分たちの空襲のことがまた思い出される。何で戦争をするのか。大きな国の政治家こそ考え直してほしいとつくづく思う」と胸の内を語った。
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