豊肥線沿いの駅や列車を米軍機が襲った。現豊後大野市犬飼町の犬飼駅から同市三重町、竹田市方面へと進み、各地で機銃掃射を繰り返した。 豊後大野市朝地町の朝地駅では、車両や駅舎が複数機から攻撃を受けて12人が死亡した(「大分県警察史」より。資料によって10~14人の幅がある)。負傷者も多数出た。 1973年の本紙連載「大分の空襲」は、「待合室、駅前広場も死傷者から出た血で赤ペンキをふりまいたよう」だったと記す。17歳の女性駅員も背中から銃弾を受けて亡くなった。 来襲した飛行隊は、九州の交通網の写真撮影を主な任務としていた。宮崎県内で1機が撃墜され、捕虜となった米兵は移送先の福岡で処刑されたという。 (各種資料を基に、1945年の県内の空襲被害を掲載します)
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