空襲体験者の証言を本紙連載企画「大分の空襲」(1973年8~9月)から再掲します。<大分市府内町 木村ハズさん> 七月十六日の夜半、空襲警報と同時に夫は警防団員として荷場町小学校に出動しました。予感というのか「今夜あたりどうも危ない。大事な物は井戸の中に放り込んで逃げろ」といい置いたのがその通りになって、間もなく物すごい焼い攻撃が始まりました。 バケツ一個持って逃げ始めましたが、道々行く手に火のかたまりがパッパッとはじけます。道のかたわらには防火用水がたくさんありますので、バケツに水をくみ、一つ一つ水をかけては踏み消して行ったら、いつの間にか外堀通りから大分駅の方に出ていました。空襲になったら県教育会館の方に逃げるはずだったのが逆の方向になったわけです。 そこの貨車二両のかげに、若い男の人がぼんやり突っ立っていましたので、「上野に行く道を教えてください」というと、その青年は「僕は延岡から線路づたいにさっきやっとここまでたどり着いたのです」といいます。 すると突然、パラパラと焼い弾、「おばさん伏せろ」と青年が叫んで二人で地上に伏せましたが、飛び散った黄リンが青年の胸から腹にかけて燃えています。夢中で手で黄リンを払い落としてあげたら「おばさんの方も燃えている」と今度は青年と二人で自分の火も消さねばならない始末です。 そのうち偶然にも二男(当時大分中三年生)と出会い、親子の不思議な縁に驚きながら上野の大分中学まで逃げたことでした。 家が丸焼けになったので、ひとまず落ち着き先をと、浜町にいる義妹(当時34歳)の家を訪ねてがく然としました。外地で夫と死別、女手一つで四人の子供を育てていたのですが、その夜の空襲で長男(当時小学校五年生)を除いて三人の子供を失っていたのです。 涙ながらの義妹の話によると、母子五人は家のすぐ近所の町内共同の防空壕(ごう)に入っていたのですが、義妹は気丈な人で、自宅に落ちた焼い弾を消しに行っていたのです。やっと消し止めて壕にもどってみると、壕は直撃を受けて火の海。長男は全身数カ所に火傷を負ってはい出て来ましたが、あとの子供らはもう虫の息。一緒に入っていた近所の人二、三人も亡くなりました。 三人の子供たちはしばらく病院で生きており、義妹がトマトをかみくだいて口移しに一人一人にふくませると、苦しい息の下から「おかあさん、おいしい」といって、間もなく三人とも息を引きとりました。 葬式を出そうにも棺オケがないので、お嫁入りのときに持って来た桐タンスの引き出しを三つあけて、それに子供たちを入れて葬ったのです。一挙に三人の子を失った悲しみはたとえようもなく、夜中にふと義妹の死んだ子供たちを呼ぶ声に目ざめて身を切られるような思いでした。(原文を一部修正、省略しています)【7月16~17日の動き】=16日=17:06 B29爆撃機がサイパン島の米軍基地から離陸を開始。計134機が出撃(救難機やレーダー対策機など含む)22:46 大分地区に空襲警報23:50 「敵機来攻の公算大」として大分市内の警防団に警戒を命令、一般家庭に防火準備を指示=17日=0:12 B29の先導機が大分市上空に到達し、空襲を開始。順次飛来した計124機が2万2922個の焼夷(しょうい)弾を投下し、市街地が広く炎上1:32 1時間20分に及ぶ爆撃が終了8:15 最終機がサイパン島の基地へ帰還完了。米軍側の損害はなし
17日付の紙面はこちら