空襲で多くの建物が焼失した大分市街地。現トキハ本店から北西方面を撮影。右下は被災した現大分銀行赤レンガ館=1946年2月、米軍撮影(豊の国宇佐市塾提供)
太平洋戦争末期の1945年7月17日、大分市は米大型爆撃機B29による大規模な焼夷(しょうい)弾攻撃を受けた。午前0時過ぎから1時間20分に及ぶ爆撃で、市中心部が焦土と化した。
B29は約2500キロ離れたサイパン島から飛来。計124機が上空約3千~3500メートルから2万2922発を投下した。油脂燃料が飛散するナパーム弾が使われ、市街地一帯に火災が広がった。
死者49人、負傷者122人。防空壕(ごう)への直撃弾や、体に付いた燃料の火に焼かれるなどして死傷する市民が相次いだ。家屋は2358戸が全焼、130戸が半焼し、焼け出された人は1万730人に上った。
府内城跡(現大分城址公園)にあった県庁をはじめ多くの官公庁、学校、病院、銀行なども被災した。
米軍は当時、日本の戦争継続能力をそぐため地方都市を次々に空襲していた。翌18日に市内を視察した内務省の灘尾弘吉次官(元大分県知事)は「全国各地方はやられるだろうが、こんなことでへこたれてはならない。あくまで戦い抜く気迫と、断じてへこたれぬ粘りがあって必勝の道が開ける」と語った。
大分大空襲に詳しい大分大の神戸(かんべ)輝夫名誉教授(86)は、大分市が攻撃目標になった理由を「日豊線、豊肥線、久大線という鉄道が結節する重要地点であり、航空機の修理・整備を担う海軍の工場や、陸軍の練兵場などの軍事拠点もあった」と説明する。
既に日本の敗戦は決定的な状況で、「東京大空襲があった3月から、国内の犠牲者は急激に増えていた。だが、もう一度戦果を挙げてから和平交渉をしようという『一撃講和』に固執して戦争を続け、結果的に8月の原爆投下までいってしまった」と述べた。
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大分市の人口密集地が無差別空襲を浴びた「大分大空襲」。戦中・戦後の本紙掲載記事のほか、主に次の文献を参考にした。
▽大分市警防課「防空実施日誌」(1945年)=国立国会図書館デジタルコレクションより▽「大分県警察史」(63年、86年)▽大分の空襲を記録する会編「大分の空襲」(73年連載、75年出版)▽奥住喜重、工藤洋三著「米軍資料 大分空襲の記録」(99年)