1945年4月21日は、米大型爆撃機B29による空襲で大分市と柳ケ浦町(現宇佐市)に大きな被害が出た。 大分市は同日午前、大分駅の機関庫や金池南などの一帯が爆撃を受け、時限爆弾も交じっていた。金池国民学校の児童1人や機関庫の職員、住民ら計12人が死亡した。 正午過ぎ、単機で飛行していたB29が、第12海軍航空廠(しょう)第3工場に爆弾を落とした。学徒動員で働いていた大分中の生徒18人を含む70人余りが犠牲になった。 柳ケ浦町は、特攻隊の編成基地となっていた宇佐海軍航空隊が猛攻を浴びた。「宇佐市史」によると軍関係の戦死者は161人。一方、「大分の空襲」(73年本紙連載)は隊員の記録を引用し▽140人即死▽70人余りが負傷後に防空壕(ごう)内で死亡▽100人余りが病院で死亡―で計320人と記す。 民間の死者は9人。100戸以上の家屋が倒壊、焼損、大破した。三洲国民学校や柳ケ浦女学校なども焼けた。■爆撃、級友が行方不明に 大分市の第12海軍航空廠(しょう)で空襲に遭った生徒の体験談を紹介します。(宇佐市の空襲の証言は後日掲載) 広瀬晴四郎さん(当時・大分中3年) この日早朝、いつものように、近所の級友をさそって動員先の航空廠へと向かった。だが、途中で空襲警報が発令され、そのまま家に引きかえした。今の長浜小学校の付近から南側の地域と、大分駅付近が爆撃され、相当な被害を被ったのだが、昼前に警報は解除された。 再び仲間五、六名と連れだって航空廠へ。着いたのが昼頃。それぞれの職場へ別れていった。私は第二機体(第二工場の意と思う)なので、第三工場勤務のK君と連れだって職場へ急いだ。別れぎわに、一緒に帰ることを約束した。 たしか、正午を少しまわっていたと思う。工場へ入った直後であった。かすかに爆音が聞こえてきた。人の声につられて工場から出て空を見ると、たしかにB29が一機、キラキラ光って見える。とてもきれいであった。昼休みだったためか、多くの人達が空を見上げていた。 突然、ガラガラ、ガラガラガラ、と雷のような音がしてきた。爆弾だと直感した。二メートルぐらい横に防空壕(ごう)があったのだが、それにはいる余裕もなく地面に吸いつくように伏せた。 ごう音、風圧、振動。何分たったか、いや何秒だったかもしれない。物音がおさまったので顔を上げてみると茶褐色の世界。だれもいない。一瞬、夢の中にいるような気がした。しかし、すぐに何とも言えない恐ろしさをおぼえ、工場南側の板塀を乗り越え、裏川を渡り、下郡まで一目散に走った。 途中で何人もの工員や、動員の生徒と一緒になる。どの顔も恐怖にひきつった土色の顔。第三工場とプロペラ工場に爆弾がおちたこと。多数死傷者がでたらしいこと。プロペラ工場で棺桶(かんおけ)を作っていたことなどの噂(うわさ)が伝わってきた。 警報は何もでていなかった。昼のただ一機のB29は以前にも何度かきたことがあるので、その日もただの偵察だと甘く見ていたのである。 しばらくして痛む腰を押さえながら工場に帰った。道路にコンクリートの塊がころがっている。人々はあわただしく、そしてそわそわしていた。なんとなく風景がちがって見えた。 級友に出会った。何人かが行方不明らしい。名前ははっきりはしないが、誰と誰らしいと、うすうすわかる。つい今しがた、帰りに一緒に、と別れたK君も行方不明らしい。ウソのようである。 爆死などさらさら信じがたく、今にも何処(どこ)からかひょっこり出てくるのではと期待感をもとうとするが、潰れた屋根。曲った鉄柱。ひどい姿になった第三工場を見ていると、その期待も消え悲しさがこみあげてきた。 その日は、爆撃のショックやなにかで仕事も手につかず、いつもより早めに帰路についた。夕方近く、K君の家にいった。彼はやはり帰宅していなかった。行方不明らしいと告げて帰った。 (1979年刊「あゝ紅の血は燃ゆる 大分県勤労動員学徒の手記」から。原文を一部修正、省略しています)
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