町で暮らす子どもに爆撃機が迫ってきた。 1945年3月18日は日曜日だった。午前9時前、友達と遊ぼうと、大分市中心部の近くに住んでいた外山(とやま)健一さん(87)=別府市馬場=は自宅から外に出た。 「ブーン…」。うなるような低音を耳にし、空を見上げた。ずんぐりした灰色の飛行機が30機ほど、編隊を組んで向かってくる。大慌てで家へ戻り、庭の防空壕(ごう)に飛び込んだ。 当時、国民学校初等科(小学校)の2年生。「初めて見た敵機だった。あの日のことは寸分違わず頭にこびりついて離れない」。80年前の出来事を「一番恐怖の一日だった」と振り返った。 飛来したのは、九州沖を進む米空母から発進した艦上爆撃機と戦闘機だった。米軍はこの日、九州各地の航空基地を波状攻撃。沖縄上陸作戦を前に、日本軍の航空戦力をそぐ狙いがあった。大分県内の本格的な空襲は初めてだった。 外山さんがいた大分市坊ケ小路(現・錦町)の川向かいには、大分海軍航空基地と海軍航空廠(しょう)の機体工場があった。米軍機は数時間の間を置いて一帯を繰り返し襲った。「バリバリッ」「キーン」―。機銃掃射と爆撃による雷のような音と、弾が鉄骨に当たる甲高い音が夕方まで響いた。 「音がやむたびに防空壕の外に出て遊んだ。銃弾の薬きょうがいっぱい落ちていて、寒い時季なのにまだぬくもりがあった」。小さな手で拾い上げた感触を今でも覚えている。 終戦までの約5カ月間、空襲は日常になった。昼夜を問わず大型爆撃機B29が上空に現れた。学校の授業中に警戒警報のサイレンが流れ、下校途中には空襲警報が鳴る。避難のため通学路沿いの水路に飛び込む日々が続いた。 至近距離の爆発で鼓膜や眼球がやられないよう、両手の親指で耳の穴をふさぎ、残りの指で目や鼻を押さえて低い姿勢を取るよう教えられていた。「けがをして苦しむんじゃなくて、いっそ爆弾が直撃してほしい」。家族でそんな会話をした。 爆撃と銃火におびえ、食糧難にも苦しんだ暮らし。「今の人たちには想像もつかないような話でしょ」と静かに問いかける。 「終戦から80年、日本は戦争をしなかった。それが生きていて一番幸せ。これからも争いのない時代を築いてほしい」。祈るように語った。(大分合同新聞) × × × 全国各地の新聞社が連携し、80年前の「あの時」を伝えるリレー企画です。今年1月の掲載開始時から参加社が2社増え、計20紙となりました。
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