1935(昭和10)年に作られた「大分県行進曲」。レコードはこの年の7月15日に発売されました。 作詞した故・庄武(しょうたけ)憲太郎さんの親族から寄贈された貴重なレコードには、発売当時の歌詞カードも付いていました。楽譜と1番から5番までの歌詞に加え、目を引くのは右下に配されたレコード店のロゴマークです。 「別府市中浜筋 ヱトウ南海堂」 県内のレコード・CD愛好家にはなじみ深い「ヱトウ南海堂」です。さすが老舗の名店。少し驚くとともに感心しました。お店に聞いてみると、創業は1916(大正5)年。現在は別府から移転し、大分市の中央町商店街に店舗を構えています。 歌詞カードの右側の欄外にある案内文も気になります。「我等の『大分県行進曲』の体育ダンス講習会は八月四、五、六日の三日間別府蓮田校で開催されます。」 当時の新聞を調べてみると、体育ダンス講習会の記事が見つかりました。1935年8月4~6日、「大日本体育ダンス研究会大分県支部」が主催し、別府市の蓮田小学校(現・南小学校)で開かれていました。 参加者は300人以上。記事には「空前の盛況を呈す」と見出しが付けられ、大勢の人たちが一斉に両手を上に広げている写真も載っていました。ダンスは小中学校の運動会などで踊られたようです。 実は、レコードには歌詞カードの他にもう一つ、ダンスの振り付けを紹介する6ページのブックレットも付いていました。写真付きで踊り方を詳しく解説しています。 例えば、歌の1番の出だしに当たる部分では、次のように振り付けが示されています。 「一同起立して左足から『右向け右』の方向へ(一)で左足を一歩出し、両手を体前下方に交差。(写真3)。(二)で両手を体前から大きく上に挙げながら右足一歩前進。(写真4)。……」 写真は全部で14枚。振り付けは4人一組を標準に解説しており、「二人一組でも、あるいは六人一組でも同じ方法で踊ることが出来ます」と書かれています。 じっくり見ていると、あることに気付きました。どうやらこのダンスは、レコードのB面の曲に合わせて踊るもののようなのです。解説で示している前奏の長さや間奏の入るタイミングが、歌唱付きのA面とは違い、楽器による演奏のみのB面と合っているのです。 先日掲載した「大分県行進曲」こぼれ話(上)でちょっと触れましたが、B面は少しスローテンポな演奏の曲を収録しています。きっとその方が、ダンスを踊りやすいからなのでしょう。 つまり大分県行進曲のレコードは、もともとダンスに使うことを前提にして制作されていた、と言っていいのではないでしょうか。これは新たな発見でした。■「豊州新報」創刊50周年記念事業 大分県行進曲は、大分合同新聞の前身に当たる「豊州新報」の創刊50周年記念事業の一つで作られました。当時の新聞を見ると、1935年の3月ごろから50周年関連の社告が目立ち始め、創刊記念日の4月19日には記念号を発行しています。 ところで、ふに落ちないことがあるのです。豊州新報の創刊は1886(明治19)年4月19日です。つまり1935年は、創刊から49周年になるはずなのですが…。 創刊した年を含めて数えれば50年に当たるため「50周年」としたのでしょうか。10年前の1925(大正14)年には「創刊40周年」を祝っているので、当時はそんな考え方だったのかもしれません。 少々脱線しました。話を大分県行進曲に戻します。新聞に掲載された社告には、募集の趣旨を次のように記していました。 「時あたかも世を挙げての非常時、光輝ある歴史と秀麗なる天恵を併せもつ、我が躍進大分県の意気を表徴する、代表歌を得ることは真に意義あることと思う」 世を挙げての非常時、とは何やら穏やかではありません。この頃の日本は2年前に国際連盟を脱退し、軍国主義を強めていた時代でもありました。 歌詞は懸賞金付きで一般公募し、4月25日に新聞紙面で発表されました。332点の応募があり、1等に選ばれたのが庄武憲太郎さんの作品でした。 庄武さんは県内外の学校で教員を務める傍ら、短歌や作詞作曲で名をはせていたようです。この日の記事では庄武さんについて「この方面では実に天才といわれている」と称賛しています。数多くの歌に交じって大分県内の小学校歌を作ったことも記されていました。今でも残っているのでしょうか。 発表時、庄武さんは北海道の札幌商業学校に赴任していました。「入選の報に接し感激に堪えず」と電報で喜びの声を寄せたことも記事に載っていました。■「豊の国」で締めくくる では改めて、大分県行進曲の歌詞を見てみましょう。蛇足ながら少し解説も付けようと思います。【1番】耶馬の流れの水清く 久住の原の空高し 南蛮船のゆきかひし 浪路はいづこ豊の海 ※風光明媚な大分県の地理の代表として、耶馬渓、久住高原、そして海を挙げています。「南蛮船」が2番の歌詞につながっていきます。【2番】むかし大友宗麟が 遺せし文化花と咲き 世に六聖の名もしるく 千代に輝く自尊の碑 ※大分の歴史・文化が生んだ偉人を歌っています。「六聖」は三浦梅園、帆足万里、広瀬淡窓、田能村竹田、福沢諭吉、広瀬武夫の6人。「軍神」広瀬武夫中佐が入っているのが時代を感じさせます。【3番】神宣(みこと)かしこみ清麿の 義烈は薫る今もなほ 神の御稜威(みいづ)は照すなり 仰げ鎮めの宇佐の宮 ※奈良時代、和気清麻呂が皇統を守ったとされる宇佐神宮の神託の故事が題材です。「皇国」思想が強まっていた当時、大分と皇室のゆかりを示す出来事として歌詞に入れたのかもしれません。【4番】つきぬ温泉(いでゆ)のさゝやきに あつき天恵(めぐみ)の栄へあり 稔る田園(たはた)美(うるは)しく 日に拓けゆく十二郡 ※大分の豊かな土地の恵みをたたえる内容です。「十二郡」は西国東郡、東国東郡、速見郡、大分郡、北海部郡、南海部郡、大野郡、直入郡、玖珠郡、日田郡、下毛郡、宇佐郡。この当時、市は大分、別府、中津の3市のみでした。【5番】天(そら)は晴れたり野に山に 嗚呼(ああ)百万の兄弟(はらから)が 躍進の意気朗らかに 唄ふ我が郷土(さと)豊の国 ※県民とその郷土としての「豊の国」を歌の締めくくりとしています。1935年の県内人口は98万458人。この頃は「百万県民」という言い方もされていたようです。 91年前に生まれた大分県行進曲。時代の影響を受けながら、明るくおおらかに、それでいて気品のある歌詞で大分県の美点を歌い上げている、といったら言い過ぎでしょうか。名曲は時代を映し、時代を超える。大分県を代表する「名曲」の一つだと思います。(小林大輔)
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