長らく飲んべえをやっているが、こんな面白い居酒屋があるとは知らなんだ。
あれは先日の週末だ。私は郊外の自宅に直帰するのももったいなく、いつものように飲んべえの聖地・東京はJR新橋駅SL広場に向かった。
これから酔いどれていくであろう背広姿の中年連中を眺めているだけで、寂しい心が癒やされるというものだ。
さあて、今日はどこでしっぽりやるかしらん。空っぽのアタマでSLの黒い車体に見入っていた。
「こいつに乗って、どこか行けたらなあ」
実際にそうつぶやいたかどうかはよく覚えていない。ただ、なんとなく思ったのは間違いない。
その時だ。もう機関車としての使命は終えたはずの車両が、ポオと汽笛を鳴らすや、実際に煙をホクホクと吐き出したのである。
何が起こったのか。私は自分の目が信じられず、しばし硬直した。驚きはさらに続いた。車両に連結して濃いブルーの客車が2両、3両と姿を現したのだ。ゴト、ゴトと振動音を響かせ始めたところで、私は無心に客車に向かって走り出した。
なんとかこの列車に乗って、どこか知らない世界を旅してみたい。
幸い、客車のドアは開かれたままで、私は小走りに駆けて乗り込むことができた。ステップに足を乗せたとき、誰かが手を差し出してくれた。がっしりした手に、私は落ち着くものを感じた。
「お初の方、ですね」
フロックコートをまとった初老の男性はニコリとほほ笑んだ。男性は歓迎の気持ちを力いっぱい表すかのようにまなじりを下げた。
「はあ、いやあなんとも」
私はどう答えてよいか分からず、なんとも曖昧な返事をした。それにしても、新橋のSLが今もまだ現役だったなんて、驚きだ。そして連結する車両、常連とおぼしきお客。何もかもが不思議で白昼夢を見ているようだが、今はもう何もかも見えたまま聞こえたままに味わいたいとの思いが勝った。
「ここはね、東京上空を一晩駆けてぐるりと巡る、居酒屋列車なんですよ」
じんわりしたブルーの光を照らし始めたスカイツリーをはるか見下ろし、紳士は教えてくれた。
「さあさあ、飲みましょう」
4人掛けのコンパートメントに通され、私と紳士は車窓側の椅子に向かい合った。まもなく車掌が現れ、一礼すると私の言葉を待った。
無言でかしずく姿に、私は何を語るべきかを無意識に悟った。
「シャンパンを」
車掌は喜んでとでも言い出しそうな笑顔を見せると、キャリアーからボトルを取り出し、シュポンと栓を抜いた。
乾杯
「都心のネオンをつまみに、初春の宵を楽しむ。いや実に、最高ですな」
紳士はもう何十年来の酒友達とでも言わんばかりの気安さでもって私に話しかけてこられた。私もそういえばそうだったかしらんと半ば受け入れ、突然の至福に浴した。
互いに自己紹介らしき紹介をすることもなく、眼下に広がる風景から感じたことを語り、口にした酒の感想を分かち合った。
いろいろと話すうちに、この列車のプロフィールというようなものが見えてきた。
どうやらこの列車は、お酒をこよなく愛する者だけに姿を見せてくれる夢の乗り物らしい。乗客は古今東西、それこそ過去未来いろんなところから乗り込んでくるようだ。新橋駅から乗ってくるのは生きた人間だが、その他はどっからこっから、勝手に入り込んでくる。そして、酒を飲み、つまみを食らい、グラスをちょこを傾け合う。お代? そんなものはない。宵越しの銭なんて持たない連中に、一体何を望もう。
先頭の機関車が右に左に漆黒の夜空をくねるたびに、後ろに続く客車の連なりが見える。それは実に長く、車窓の一つ一つに赤ら顔がのぞけて見える。ところどころ、やけに青い顔をしていたり、白かったり、いろいろあるが、まあどうでもいい。酒を飲んで赤くなるなんて、誰が決めたんだ。それはそうと、この世にこれほど飲んべえたちがいたのか。思わずうれしくなる。
紳士は「ちょっと失礼」と言い残すと客車のドアの向こうに姿を消した。そして戻ってくることはなかった。小用でも足して、また新たな飲んべえ友達を発掘しにでも行ったのだろう。素晴らしい案内人にエスコートしてもらえたことに、私は感謝した。
私もちょっと、探検でもしに行くか。
2本目に頼んだ一升瓶を右手に抱え、通路を歩いた。
ガヤガヤにぎわうコンパートメントの中に、1カ所だけ静かなところがあった。古風な衣装を身にまとった男性が、1人荒れている。
私は興味を引かれ、男性の向かいに座った。男性は私のことなぞ眼中にないかのように、ぶつぶつ、つぶやいている。
私は大胆にも聞き耳を立て、愚痴の正体をあらかた突き止めた。どうも男性は大陸の王朝時代に生きた秀才で、官吏の登用試験「科挙」にチャレンジし続けたようだ。そして、残念ながら夢はかなわなかった。
いかな秀才といえども、枠の極めて狭い試験を突破することは万に一つの僥倖(ぎょうこう)とすら言えない。かわいそうだが、それが大半の若者にとっての現実だったのだろう。
「ということで、今晩もやけ酒をあおっていると」
私は思わずツッコミめいた言葉をつぶやいてしまった。そこで初めて向かいの男性が顔を上げた。ギロリとにらむ瞳が私を刺した。
「君に、何が分かるというんだ」
地方の農家に生まれた。物心つく頃には論語孟子をそらんじていた。両親親族、地域を挙げて「この子は」と期待した。彼らの分まで希望を背負わされ、男性はひたすら勉学にいそしんだ。いそしむばかりで、結果は出せなかった。周囲の落胆は大きかった。前半は希望の重みに息切れし、後半はジェットコースターばりに落ちていくばかりの人生だった。
やがて土となり、もはや意識ばかりとなった身にとって、終わった過去の話でぐじぐじといじけるのは意味がないことは分かっている。だが、嘆かずにいられない。俺の人生は一体、何だったのだ。
「いやま、小説のネタになりそうで結構なことじゃないですか」
私はまた余計な一言をつぶやいてしまった。どうもこの夢の列車は人の心をすがすがしいまでに解放してしまうようだ。いいのか悪いのか。
「そうことではないのだ」
男性と私は互いにかみ合わない主張を交わし、しばし膠着(こうちゃく)状態に陥った。
そうこうしていると、通路側に人の気配がした。振り向くと、やたら毛深い男性がたたずんでいた。
「あ、どうぞ」
私は空気を察し、男性に左隣の椅子を勧めた。男性はニコリとすると、どっこいしょと腰を下ろした。
どうやら男性は先ほどのやりとりを立ち聞きしていたようで、何か話したそうだった。そこで私は手持ちの一升瓶を一杯勧め、「どう思いますか」と促した。
男性はどうやら話すことが得意でないらしく、身振り手振りを始めた。男性もどうやら複雑な一生を過ごしたようで、やりで刺されたり崖に追い詰められたりと相当に過酷な日々の繰り返しだったらしい。
最後はパタリと息絶えるしぐさを見せたところで、独演会は終わった。
私は男性の身振りを見ながら、どこか懐かしい、非常に懐かしいものを感じた。今はもういない、歴史の舞台から退場を迫られた存在。あれはたしか・・
「もしや、あなたは」
私の言葉に男性は瞳を輝かせた。ビンゴだ。われわれホモ・サピエンスとの生存競争に敗れ去った旧人類・ネアンデルタール人。まさかこんなところでお目にかかれるとは。
男性は一族の最後の最後の子孫だった。男性が息絶え、種族としては永遠に地上から姿を消した。
日々生きるのに必死だった。夢なんて、持つチャンスさえなかった。なかったんですよ。あなたね、「夢破れた」なんかカッコつけたこと言ってるけど、夢を持てることほどすてきなことはないですよ。
「人生で夢を持てたこと自体に、感謝しませんか」
私は旧人類に代わってメッセージを伝えた。科挙崩れの男性は、ちょこをあおぐ手を止めた。考えた。
「そうかも、しれないな」
張り詰めた糸が、緩んだ。
そこからは早かった。お互いに、阿呆なことを語り合った。酒が、緩んだ場をさらに和やかにした。われわれは打ち解け、百年来ともいえるようなバカ友達となった。
東の空に薄いオレンジが広がり始める頃、列車は下降し再び新橋駅前へと戻ってきた。
ああ、楽しかった。
ありがとう、と声をかけようと顔を上げると、科挙崩れの男性はもういなかった。隣のネアンデルタール人もおらず、客席には丸いお尻の跡が残っているだけだった。
2人とも、還(かえ)ったんだな。
目くるめく魅惑のひとときを過ぎ、私は客車を降りた。そこで記憶が途絶えた。
初春のポカポカ日和に瞳を刺激され、私は目を覚ました。
一晩を機関車の前で過ごしたのだろうか。
夢だったのかどうか、それは分からない。ただ、私はおなかも心も満たされたことに感謝した。
また、乗りたい。
私は二日酔いのアタマをなで回し、すっかりおすまし顔の黒い車体にしばらく見入った後、朝の列車を拾いにホームへ向かった。
(文・マーおじさん)
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