大分市に米軍機の編隊が飛来し、爆撃機が投下した焼夷(しょうい)弾で市街地の西部が広範囲に焼かれた。 当初は熊本市が攻撃目標だったが、先発隊の爆撃による煙で視界が悪くなったため、狙いを第2目標の大分市に切り替えていた。7月の大分大空襲で被害を免れた勢家、春日、王子地区などの家屋200戸余りが全半焼し、少なくとも8人が死亡した。 大分市街地で大きな被害が出た空襲はこれが最後になった。 (各種資料を基に、1945年の県内の空襲被害を掲載します)■家族7人を失い男泣き 空襲体験者の証言を本紙連載企画「大分の空襲」(1973年8~9月)から再掲します。<大分市春日町 磯崎梅之助さん> 磯崎さん方は十人家族である。子供八人の大所帯だ。長男、二男は東京と門司で働いており、十三歳の三男を頭に男女各三人の子がいた。磯崎さんは警防団員だから、警報が鳴るとトビ口を持って王子神社の詰め所に出動する。 その日も妻(当時四十歳)と六人の子供が自宅の菜園にある防空壕(ごう)に入るのを見届け、王子神社に出動した。 敵機は連隊裏や白木あたりの山かげから、クマバチのようなうなり上げて来襲、十機、二十機と並列した小型機が、赤、黄、青のリボンをひらめかせた焼夷弾を降らせていく。市街地の焼け残りをねらったのか、王子、春日、勢家、堀川とひとはけすると、大分航空隊上空から海に消えた。 噴き上がる火の手と夢中でたたかっていると、春日神社かいわいを一回りしてきた渡辺分団長が「わし方も焼けたが、あんた方も焼けよるで。一度帰ってみては」と声をかけた。 「春日さまもやられた」という話で胸騒ぎがし、火をくぐってわが家に帰ると、納屋が燃えている。壕のあたりは熱風が吹きつけ、その壕の戸を腹ばってあけると、壕内からも熱風が吹き上がった。 「父ちゃんじゃ、だれもおらんのか」 中は真っ暗で返事もないので、うまく逃げのびたと磯崎さんはひと安心。ところが出会う人、出会う人に問いかけても、家族のだれにも会っていないという。 「もしや、あの壕では」。胸を突き刺された思いでとって返し、水をかぶって壕内をすかし見ると、一歳の三女を抱いたままの妻が目に入った。続いて三男、四男、五男が、長女が、二女が…。みんな折り重なって倒れている。一酸化炭素でやられたのだ。一瞬、棒立ちになった磯崎さんは、やにわに壕の中にもぐり込んでいったが、それっきり意識を失っていた。 家族七人の遺体は交番に並べられた。赤電球のにぶい光が遺体と通夜の客を照らした。意識をとり戻した磯崎さんは、翌日、形ばかりの葬儀をすますと、前日の朝まで元気にむつみ合っていた家族の遺体をリヤカーや荷車に積んで西大分の山手に葬った。初七日を終えて焼け跡に立った磯崎さんは、肩をふるわせて初めて男泣きに泣いた。 戦後、しばらくたって市から七百円と別途三百円の金がおりた。その三百円が警防団の報酬なのか、焼失家屋の見舞金かは忘れた。ヤミ米が一升百五十円台をつっ走っていた時代である。 (原文を一部修正、省略しています)
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