空襲被害の現場に建てられ、後に移設された地蔵尊=2018年、佐伯市城下東町の養賢寺
米大型爆撃機B29の編隊が佐伯市に飛来し、佐伯駅周辺や市街地に爆弾を落とした。現中村西町の本馬場通り沿いにあった防空壕(ごう)に直撃し、避難していた多くの住民が即死。他の被害を含め市民46人が亡くなった。隣の東上浦村(現佐伯市上浦)でも浪太地区で子ども3人が死亡した。
この日、佐伯上空は雲が垂れ込め、視界が悪かった。米軍の記録では、攻撃目標は佐伯海軍航空隊の飛行場。天候状況によりレーダーで爆撃したと記しており、狙いがそれて市街地などに着弾した可能性がある。
現豊後高田市の田染蕗では富貴寺大堂の近くに爆弾が落ち、爆風で屋根や柱などが壊れた。北九州の空襲から帰還途中の米軍機が、余った爆弾を投下したとみられる。同市来縄では2人の犠牲者が出た。
(各種資料を基に、1945年の県内の空襲被害を掲載します)
■松の枝に血と肉片
空襲体験者の証言を本紙連載企画「大分の空襲」(1973年8~9月)から再掲します。
<佐伯市 今井到さん(当時・小学校長)>
佐伯市城山のふもとにある養賢寺の山門から、馬場の松並木が真っすぐ町に走っている。この並木土手の尽きるあたりに今井さんの自宅があり、姉夫婦と、その養女にした二女、それに今井さんの長男敏雄君(当時中学二年生)の四人が住んでいた。
今井さんは勤めの関係で鶴見村に住んでいたが、四月二十六日はたまたま佐伯市で校長会議があるので、早朝から村の船着き場で出港を待っていた。日に一回だけの通い便、客はまばらで五人くらいはいたろうか。
すると、例の不吉な編隊音が聞こえて来た。ふり仰いでも厚い雲が重なって、どっちの方向に飛んでいるのかわからない。
爆音が頭上を過ぎるのを待って船に乗り込むと、やがて、ドロドロドロと遠雷のような音が、朝なぎの海面を伝わって佐伯の方から流れて来た。
「また、航空隊がやられたんだろう」
ところが、船が佐伯市葛港に着くと、待ち構えていたかのように、一人の警防団員が今井さんに近づいて来た。無理に顔色を抑えていたようだったが、「とにかく、家に帰って一度確かめてください」とカバンをひったくって先に立つ様子があわただしい。
自宅といっても一キロ余りも離れている。道々、団員はたまりかねた顔つきで姉夫婦らが被爆したらしいことを告げる。
「先生、いいですか、しっかりしてくださいよ。お姉さん夫婦に間違いありません…それに、お嬢さんもそうらしいのです」
今井さんの胸が不吉な想像に重くふさがる。
「敏雄はどうだろう」
「それがよくわかりません。なにしろ、二、三十人の仏が埋まっていて…」
そろそろ家屋疎開のうわさもある駅前から、夢中で馬場まで駆け抜けてくると、自宅前の土手下の人だかりを見て、「しまった」と目の前が真っ暗になる。
松の枝から異様なかたまりがぶら下がっている。なんといわれても、それが人間の下半身だとは思えない。引き裂かれた松の枝には血と肉片がこびりつき、着衣の端切れが風にゆらめいていた。
その下に並べられた数々の遺体。並べられたというよりは、かき集められたといった方が正しい。だれがだれやら、男やら女やら判別もつかないのだ。血と肉の破片にドロがまみれて、いっそう不気味だ。
義兄は腸をえぐられ、姉は首がなかった。姉夫婦に子供がないため、養女に出した娘も、わが子でありながら見極めがつかない。子供らしい遺体を見つけて、これがそうだろうということになった。
柔道五段の矢野さん一家三人も跡かたなし、菊池さん一家は七人も亡くなった。みんな着物を目印にして大よその見当をつけるのだ。河野さん、武藤さん夫婦をはじめ、親しくしていた町内隣組十余人、水兵三人―全部で二十八人ともいうが、通りがかりの人が壕(ごう)に入ったことも考えられ、実数はわからない。
助かったのは、壕のはずれにいた主婦の坂本さんだけ、この人も爆風と恐怖で意識を失っていたという。
ただ一人、長男の敏雄君の姿が見えない。
今井さんは、直撃を受けた壕と道一本を隔てた自宅に戻ってみた。家は傾き、ふすまや障子は木っ端みじんに砕けている。かまちに足をかけてぼう然としていると、「とうさん」とかすかな声。
「そら耳なのだろうか」
すると、もう一度「とうさん」と呼ぶ声。土間の床から二つの目がのぞいている。
「敏雄か、敏雄じゃないか。お前、生きていたのか、けがはないか」
「うん、おじさんも、おばさんもみんな死んでしもうた」
敏雄君は眠り込んでいて逃げ遅れ、二階から降りて家の中の壕に一人で入っていたという。
その二階に上がってみると、ここもまた、天井や壁に血のりや肉片がびっしり。前の防空壕でやられた人たちが、ここまで吹っとばされているのだ。
床柱の横に奇妙な布切れが落ちている。つまみ上げると、それははぎとられた顔の皮膚で、鼻もついている。今井さんはただ一人無事なわが子と向かい合って言葉もなかった。
この現場には、町の人の手で小さな地蔵尊がまつられた。いつしか佐伯電話局が建つことになって地蔵尊は養賢寺の一隅に移された。
(原文を一部修正、省略しています)