戦後70年を前に、戦争の記憶を風化させず、その悲惨さ、平和の大切さを次世代へ伝えていこうと、2014年4月にスタート。他国での戦火、空襲、引き揚げ、学徒動員、銃後の守り…。県内にいる体験者の貴重な証言を本紙記者が聞き取り、「戦争とは何か」を学び、伝える長期企画。
※大分合同新聞 夕刊 2014(平成26)年4月1日~2020(令和2)年3月23日掲載
<1941年4月に四日市高等女学校に入学した矢野悦子(やのえつこ)さん(86)=宇佐市下乙女。12月に太平洋戦争が始まると、多くの女学生らと一緒に宇佐海軍航空隊の軍用機を空襲から守る掩体壕(えんたいごう)づくりに参加。勤労奉仕の日々を過ご...
<四日市高等女学校時代、学徒勤労動員で建設作業を手伝った矢野悦子(やのえつこ)さん(86)=宇佐市下乙女。1944年4月に小倉陸軍造兵廠糸口山製造所が完成すると、そのまま兵器製造に従事した> 私たちは本来、45年3月で卒業するはず...
戦争は幼い子どもたちまでいや応なく巻き込む。工藤敦子(くどうあつこ)さん(80)=大分市三佐・元小学校教諭=は10歳の時、中国山東省の済南市で終戦を迎えた。友達と遊び学校で学ぶ日常は一変。治安が悪化して家でおびえる日々を過ごし、小さな足で...
<中国の済南市で終戦を迎えた工藤敦子さん。半年間の家に閉じこもる生活の末、大半の荷物を処分して日本へと出発することになった> 1946年3月3日。荷物は1人が一つずつこうりにまとめて出発しました。ご近所と梯団(ていだん)(グループ...
大分合同新聞社は2日、戦争体験者の証言を記者の聞き書きで紹介する連載「伝える戦争の記憶」(月曜夕刊1面)の関連企画として、大分市のホルトホール大分でシンポジウムを開いた。呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」(広島県)の戸高一成館長(67...
死と隣り合わせの過酷な日々、突然の爆撃で理不尽に家族を奪われた悔しさ……。2日、大分市で開かれた「伝える戦争の記憶」シンポジウム。「体験者が語り、若い世代が過去を学ぶことが平和への道になる」「何があっても戦争だけは嫌だ」。県内の戦争体験者...
太平洋戦争の戦況が悪化するのに伴い、1943年9月、旧日本軍大本営は「絶対国防圏」を策定した。米軍など連合国軍の侵攻に備え、サイパン島などのマリアナ諸島の防備強化を進めた。海軍衛生兵としてサイパン島、ロタ島に派遣された土屋一郎(つちやいち...
<佐世保海軍病院普通科58期を卒業した土屋一郎(つちやいちろう)さんは223設営隊所属に。空港などの基地関連施設の建設などが任務だった> 1944(昭和19)年2月15日、佐世保港で、軍人と工員合わせて1,361人が軍隊輸送船「香...
大分合同新聞社は大分市で開いた「伝える戦争の記憶」シンポジウム(2日、ホルトホール大分)で、戦後70年続いてきた平和な社会がどのような状況に置かれていると感じているか、来場者アンケートをした。...
<ロタ島に到着した土屋一郎(つちやいちろう)さん。223設営隊の衛生兵として負傷兵を治療する日々。米軍からの攻撃も毎日のように続いた> 海岸から1時間ぐらい歩いた場所に兵舎があり、223設営隊のテントの病室もありました。そこで、デ...
戦渦は大分で穏やかに暮らしていた人たちにも容赦なく襲いかかった。戦時中、女学校に通っていた羽田野(はだの)トミさん(86)=大分市岩田町・元小学校教諭=は1944年から学校の授業がなくなり、神風の鉢巻きをして海軍の飛行機を整備する工場へ通...
<戦時下、羽田野トミさんは憧れの女学校に入学。戦火の高まりとともに授業がなくなり、海軍工場で飛行機の整備をするようになった。1943年5月29日、アッツ島守備隊が玉砕し、44年7月7日にサイパン島も陥落した> 44年7月13日、第...
<1945年、大分市内も空襲されるようになり、第1高等女学校専攻科の羽田野(はだの)トミさん(86)=大分市岩田町、元小学校教諭=は第12海軍航空廠(しょう)が避難した市内滝尾の山に掘られた隧道(ずいどう)に通うようになった> 飛...
別府市東荘園の吉野文雄さん(90)は大学2年だった1944年に召集され、大陸に渡った。奉天で終戦を迎えたが、その後の抑留生活は4年に及んだ。帰国直前に「反動分子」の疑いを掛けられ、一時は帰国が危ぶまれる状況になるなど、苦しい日々を過ごした...
<大陸に渡り、奉天で終戦を迎えた吉野文雄さん(90)。すし詰めの貨車に乗せられ、中央アジアのパフタラル収容所(現在のウズベキスタン)に送られた。主に綿花栽培に従事し、ドイツ人捕虜とも交流した> 1948年1月、炭鉱の町、カラカンダ...
<パフタラル(ウズベキスタン)からカラカンダ(カザフスタン)の収容所に移された吉野文雄さん(90)。厳しい寒さに耐えて作業を続けた。カラカンダでは断片的に入る戦後日本の様子に不安や喜びを感じつつ、帰国の日を待ち続けた> 私はパフタ...
太平洋戦争が終盤に差しかかる1945年1月、陸軍に所属していた堀秀義さん(97)=杵築市大田石丸=は台湾へ渡航中、潜水艦と戦闘機から攻撃を受けた。100人以上が戦死する中、九死に一生を得た。「何度も「もう駄目だ」との思いが頭をよぎった。よ...
<1945年1月、陸軍の兵隊で台湾に向かった堀秀義さん(97)。乗船する油輸送船「海邦丸」は目的地の高雄港に入港する直前、敵機の襲撃を受ける> 9日の早朝、敵機襲来の警報が船内を走りましたがすぐに解除されました。「勘違いだよ。友軍...
戦争は一瞬にして目の前の幸せを奪う。竹下ヤエさん(89)=大分市新川町=が満州で終戦を迎えたのは19歳のとき。引き揚げまでの1年余り、さまざまな収容所を転々とし、ソ連兵の残虐な行為と飢えに耐えながら生き抜いた。大好きだった父の行方はいまだ...
<ソ連軍に連行されたハルビン市郊外の新香坊(しんこうぼう)難民収容所では、死が隣り合わせだった> このとき私は19歳。農業大学校のような広い所に、植えられていたジャガイモやニンジンなどを何千人という若い女性がくわを担いで掘らされて...
朝鮮で医学生としてまい進していた中津市今津の北村芳太郎さん(91)は、日本統治下の平壌で終戦を迎えた。進駐してきたソ連軍によって北緯38度線以北に閉じ込められ、引き揚げにも遅れた。銃を何度となく突き付けられる緊迫した状況の中、生き延びるこ...
<医学生北村芳太郎さんは敗戦後、朝鮮人に目を付けられるようになった。市街地から逃げ出すように、知人のいる平壌郊外・秋乙のソ連軍の駐屯地内へ向かった> 退役軍人佐藤豊吉さん=当時(60)=とは、医専の同級生を介して知り合いました。彼...
<朝鮮人の目を逃れ、ソ連軍駐屯地内に入った北村芳太郎さん(91)は、軍の使役をしながら、引き揚げを待った。半年後、日本を目指して南下が始まった> 1946年3月。頼っていた佐藤豊吉さんの勤務先・兵器所グループの“一員”として、ソ連...
戦争体験者の証言を聞き書きで紹介する連載「伝える戦争の記憶」。取材した記者3人が、昨年8月に開催したシンポジウムのコーディネーターを交えて座談会を開いた。テーマは、戦争体験の悲惨さや記憶の伝え方、戦争の加害責任から安保法制へと広がった。取...
由布市挾間町の大野一人さん(91)は幼いころから空に憧れ、陸軍飛行兵となり、南方戦線で偵察任務に当たった。マレー半島で終戦を迎えたが、他の日本兵とともに赤道直下の島で厳しい抑留の日々を送った。当時の記憶をたどりつつ、ゆっくりと語り始めた。...
<陸軍飛行学校を卒業し、念願の飛行兵となった大野一人さん(91)は南方戦線で飛行兵として偵察任務に当たり、駐屯していたマレー半島で終戦を迎える> 1945年8月15日、マレー半島南部のカハン飛行場の一角に集合し、無線班が受信した玉...
15歳で志願して海軍の飛行予科練習生となった大分市小野鶴南の羽田野尚さん(87)。国内外の航空隊に所属し、飛行技術を学んだ。ロケット技術を駆使した最新戦闘機で戦場へ向かうはずだったが、終戦。当時を振り返ると、恩師への思いや大切な人の死、家...
<航空隊の飛行兵としてお国のために戦うことを誓った大分市小野鶴南の羽田野尚(ひさし)さん(87)。鹿児島、台湾で訓練を重ねた後、決戦に備え、いよいよ本土へ戻ってくる。驚きの事実を36年後に知った> いったん話を先に進めますが、終戦...
杵築市山香町立石の小野恵美子さん(83)は会社員だった父親の仕事の関係で子ども時代を朝鮮半島で過ごした。平穏だった現地での暮らしは終戦とともに一変。収容所のような日本人寮に強制的に移住させられ、ひもじさと暴力に苦しむ日々を送った。涙をにじ...
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