戦後70年を前に、戦争の記憶を風化させず、その悲惨さ、平和の大切さを次世代へ伝えていこうと、2014年4月にスタート。他国での戦火、空襲、引き揚げ、学徒動員、銃後の守り…。県内にいる体験者の貴重な証言を本紙記者が聞き取り、「戦争とは何か」を学び、伝える長期企画。
※大分合同新聞 夕刊 2014(平成26)年4月1日~2020(令和2)年3月23日掲載
<長女を背負って、険しい山道を4日間歩き続けた> 終戦翌年の1946年5月、近所の人が内地に引き揚げると聞きました。夫に相談すると、内地はさらにひどい状況だと考えていたようで、「私は残る。長男昭千代(てるちよ)と長女美沙子を1人ず...
旧日本海軍は1942年、将来の中堅幹部養成のため、14~16歳を対象に「海軍特別年少兵」制度を始めた。特年兵約1万8千人のうち、5千人超が南方の激戦地などで命を落としたとされる。氷室暁美(あけみ)さん(84)=大分市羽屋=は最後の4期生と...
<戦場を知る下士官の厳しい指導。夜は寂しさからすすり泣きの声> 特年兵の兵舎は1階が教室、2階が居室の古い木造でした。居室では1部屋に20人ほどがハンモックをつって寝ていました。起床ラッパは午前6時。召集令状を受けた40~50代く...
日本が戦争に敗れ終戦を迎えた1945年8月15日、豊かだった満州での暮らしは一変した。略奪、飢え、死んだ仲間たちを土に埋め続ける毎日―。「あのつらく悲しい出来事を到底忘れることはできない」。竹田市久住町の志賀千枝子さん(83)は、日本に引...
<半死半生の人たちのうめき声が響いた> 侵攻してきたソ連軍が囚人兵や中国人を扇動し、略奪や襲撃は過激さを増す一方でした。寮の1階はガラス窓が割られ、人々は2階や3階へと追いやられました。私たちがいた3階は4千人ほどいたと思います。...
<荷物検査でなけなしの持ち物を没収された> 包囲が解けた後、各家庭から使役を出すよう命じられ、炭坑にあるコンプレッサーを分解して運ぶなど週4日ほど働きました。賃金はなく、もらえるのは小さな饅頭(まんとう)だけ。肉体労働でしたから、...
臼杵市野津町西畑で長年、農業を営んできた阿部只生(ただお)さん(97)は1938年、20歳で歩兵として中国大陸に渡った。日中戦争の厳しい現実を目の当たりにし、多くの戦友の死を経験。終戦間際には特攻訓練も受け、死線をさまよった。悲惨な戦争を...
<狙撃された兵士らの遺体はほったらかし。夜になってようやく収容> 1941年3月の太湖(たいこ)西方作戦では、山や谷を歩いて靴がボロボロになり、足にまめが11個もできてしまって本当に痛かったです。豚脂を塗って、何とか歩いていきまし...
<中国人労働者の中に交じっていた八路軍兵士に同僚を殺される> 兵役が満期を迎えて予備役となり、農業をしながら平穏に暮らしていましたが、再び召集令状を受けました。1943年12月25日、宮崎県都城市の歩兵第47連隊に入隊しました。4...
2015年は終戦から70年。...
日本海軍の戦艦「金剛」の乗組員だった国東市国見町の猪俣信行さん(901)は、太平洋戦争末期、米軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けた。戦艦は沈没し、約1,300人が海に投げ出された。生き残ったのは237人。志願して入隊した猪俣さんだったが、多くの...
終戦間際、日本軍が占領していたインドネシアのジャワ島などで駆潜艇の機関兵だった杵築市本庄の岩元勝さん(87)は、連合国軍と戦った。護送していた船が目の前で沈没する様子などを思い起こし、あらためて「戦争はしてはいけないことだった」と訴えてい...
<連合国軍の爆撃機と戦闘。護送中の輸送船が沈没> ジャワ島のスラバヤ、ジャカルタなどを基地に大小の輸送船を護衛していました。特に記憶に残る戦闘がいくつかあります。 1945年5月、輸送船を護送しながらバリクパパンに向かう途中。...
けがが原因で右腕が自由に動かない重石勇雄さん(90)=日出町豊岡=は、長崎県の旧香焼島(こうやきじま)の造船所に動員されることになった。戦時下、厳しい職場環境に耐えながら労働に打ち込む日々。そして、対岸にあった長崎市のまちに投下された原爆...
<血や火に染まった街。「水をくれ」と言い、亡くなっていく人々> 「何か異常なことが起きている」。みんな近くの防空壕(ごう)に駆け込みました。しばらくして外に出てみて「ああっ」と驚きました。対岸の長崎市方面から、不気味な真っ黒い入...
別府市南立石八幡町の高田邦夫さん(88)は1942年、古里の九重町を離れ、満州国熱河省(当時)の綿花会社で働き始めた。45年5月に現地で徴集され、そのままソ連との国境防備についた。8月9日のソ連侵攻に始まり、約2カ月に及ぶ逃避行、収容所生...
<空腹と寒さで気を失う。火葬直前に意識を取り戻す> 生き残った戦友4人と一緒に基地から脱出しましたが、壮絶な逃避行となりました。私たち5人はそれぞれ、手りゅう弾1個と乾麺麩(かんめんぽう)(乾パンのような軍用食)、水筒を持って山や...
<43年の歳月を経て、戦友と無言の再会を果たす> ソ連の収容所や満州の戦地で眠る戦友のことを忘れることはできません。帰国後、私は県警に入りました。そして退職後はかの地を訪問するつもりでした。そんな折、兵庫県の戦友会がソ満国境で慰霊...
ちょうど70年前の1945年3月。大分市上宗方の桑原智与(ちよ)さん(79)は、生まれ育った東京・両国で、米軍機の爆撃による東京大空襲に見舞われた。おなかの大きな母、父と姉とで火災旋風が吹き荒れる中を逃げた。「当時のことを思い出すと今でも...
<父がリヤカーに身重の母を乗せて懸命に歩いた> 今も両国駅のそばにある、焼け残った病院に一晩置いてもらいました。翌朝、どこでどう工面したのか、父がリヤカーを持ってきました。身重の母を乗せて父が引き、姉と私は両側から母の手にすがり、...
太平洋戦争中の徴兵による労働力不足を補うため、子どもにも働くことを強制した「学徒勤労動員」。日田市東羽田町の穴井民子さん(86)も中津と杵築で鉄道職員の教習生として動員された一人。学校が突然閉校になったり、空襲警報が鳴っても仕事中は逃げら...
<操縦士の顔が見えるほどの低空飛行> 戦争中の生活は貧しく、米などは配給制でどこにも売っていなかったんです。3食取っていましたが、米にカボチャを混ぜた雑炊一杯とキュウリなどが入ったみそ汁。灯火管制により、夜間は敵に居場所が知られな...
国東市国東町の金沢チエ子さん(83)の少女時代は戦争一色だった。日本の勝利を疑わない教育を受け、爆撃で犠牲となった同級生を目の当たりにした。当時の暮らしぶりや学校生活とともに空襲におびえた戦争体験を振り返った。 「戦争って何だろう...
<終戦を迎える年、国東高等女学校の2年生になった金沢チエ子さん(83)=国東市国東町。戦況が悪化し、空襲警報が鳴り渡るようになった> 1945年7月25日朝。いつものように登校していると、空襲警報が聞こえました。登校中に警報が聞こ...
日本が大敗を喫するガダルカナル島の戦いで、乗り組んだ軍艦の沈没を体験した安部玉記さん(91)=大分市寒田北町=は、沖縄への海上特攻で再び生き延びた。太平洋戦争とはいかに無謀な消耗戦だったか、記憶をたどった。 16歳で長崎県の佐世保...
<ガダルカナル島の戦いで駆逐艦「江風(かわかぜ)」に乗り組んでいた安部玉記(あべたまき)さん(91)=大分市寒田北町=は、敵魚雷で沈没の憂き目に。戦線離脱で佐世保に戻った後、当時建造されたばかりの軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」で再び南方の海へ...
就職先の満州で志願兵となった岸上成隆(きしがみしげたか)さん(89)=国東市国東町中田=は、ソ連の戦車に爆弾を抱えて肉弾攻撃をする「挺進(ていしん)切り込み隊」の一員として戦地に立った。戦後はシベリアに抑留され、鉄道敷設の重労働を強いられ...
<国東農学校を卒業後、満州で農民の組織管理に従事していた岸上成隆(きしうえしげたか)さん(89)は1945年春、徴兵試験に合格した。配属先は満州東部の牡丹江(ぼたんこう)。後に、ソ連軍の戦車と猛烈な地上戦が展開される、いわば最前線だった>...
<就職先の満州で志願兵となった岸上成隆(きしうえしげたか)さん(89)は1945年8月、ソ連の戦車と最前線で対峙(たいじ)。部隊57人のうち生き残ったのは17人だった> 残存兵での行軍は過酷でした。命令が全てだったため、隊長を失う...
戦時中、宇佐海軍航空隊や軍需工場・小倉陸軍造兵廠糸口山製造所があった宇佐市。矢野悦子さん(86)=同市下乙女=は四日市高等女学校時代、多くの女学生らとともに軍用機を空襲から守る掩体壕(えんたいごう)造りや兵器の製造に従事した。太平洋戦争末...
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