戦後70年を前に、戦争の記憶を風化させず、その悲惨さ、平和の大切さを次世代へ伝えていこうと、2014年4月にスタート。他国での戦火、空襲、引き揚げ、学徒動員、銃後の守り…。県内にいる体験者の貴重な証言を本紙記者が聞き取り、「戦争とは何か」を学び、伝える長期企画。
※大分合同新聞 夕刊 2014(平成26)年4月1日~2020(令和2)年3月23日掲載
朝鮮で子ども時代を過ごした小野恵美子さん(83)=杵築市山香町立石=と家族は終戦後すぐ、それまで暮らしていた父親の会社の社宅を追われ、日本人寮に強制移住させられた。厳しく監視され、食料も十分に手に入らない生活。日々の苦しさから、北緯38度...
太平洋戦争末期に満州で陸軍機動部隊に入隊した上島彬さん(91)=竹田市会々=は、爆弾を抱えてソ連軍の戦車に自爆攻撃をする作戦を命じられた。作戦決行の直前に終戦を迎えたが、その後は3年間にわたるシベリア抑留を経験。苦難を乗り越えながら必死に...
<満州で陸軍機動部隊に入隊した上島彬さん(91)は、琿春(こんしゅん)で爆弾を抱えてソ連軍の戦車に自爆攻撃を仕掛ける作戦中に終戦を迎えた。「日本に帰ることができる」と思ったが、ソ連兵に連れて行かれたのはソ連のコムソモリスクだった> ...
太平洋戦争の戦況が悪化の一途をたどる1944年2月、海軍に所属していた石川久人さん(92)=大分市西鶴崎=は、トラック諸島の竹島基地で敵機から襲撃を受けた。「人のことを考えている余裕なんてない。自分の命を守るのに必死。とにかく無我夢中だっ...
<1944年2月、海軍の整備兵としてトラック諸島の竹島基地に向かった石川久人さん(92)=大分市西鶴崎。上陸からわずか数日後、米軍機動部隊の奇襲を受ける> 「バリバリバリ、ドドー、ウアーンウアーン」。けたたましいサイレンの音と機銃...
陸軍航空隊の整備兵として、満州で終戦を迎えた新貝公明さん(88)=宇佐市下庄。ソ連の軍事捕虜として投獄され、カザフスタンへの移送中には中耳炎が悪化し、生死の境をさまよった。約4年に及ぶ抑留生活は食糧事情が厳しく、重労働に耐える日々だった。...
ソ連はドイツとの戦争に勝利したものの、多くの犠牲者を出した。戦後復興の労働力不足を補おうと、日本人の軍事捕虜を長期にわたって抑留し、強制労働させた。ソ連の軍事捕虜となった元陸軍航空隊整備兵の新貝公明さん(88)=宇佐市下庄=も帰国を果たせ...
大分市大津町の佐伯哲男さん(87)は、16歳の時に満州で終戦を迎えた。引き揚げる途中でソ連の軍人や中国人に襲われ、飢えや病気にも苦しんだ。「悲惨な事実を伝えたい」との思いで、過酷を極めた当時を振り返った。 <1945年7月。乾性胸...
<疎開先の安東で佐伯哲男さん(87)=大分市大津町=は、家族と親族の10人で中国人の民家の2階に住んでいた> 安東を選んだのは、少しでも暖かい土地が良かったから。とはいえ満州の冬は寒い。外は氷が張っている。たった一つの火鉢で交互に...
「生きるも死ぬも紙一重じゃった」―。海軍兵として終戦までの約3年8カ月、死の危機を何度もくぐり抜けてきた川津健治さん(94)=日田市大山町西大山=は語った。初めての戦場は日本海軍が惨敗したミッドウェー海戦。その後も繰り返し同僚の死を目にし...
〈乗っていた戦艦「霧島」が米軍の攻撃で沈没した第3次ソロモン海戦。川津健治さん(94)=日田市大山町西大山=が負傷した体で日本に戻ったのは1942年12月末だった〉 快晴の朝、船から富士山が見えた。「祖国万歳!祖国万歳!」とみんなで叫...
戦争が小学生の私から父を、母を、乳飲み子の妹を奪っていった―。国東市国東町鶴川の椎原ミツ子さん(80)は失った家族への思慕を胸に戦後を生き抜いてきた。穏やかに暮らす今、4人の孫には同じ苦しみに遭ってほしくないと強く思う。「戦争は家族を壊す...
<敗戦後、妹郁江さんと2人になった10歳の椎原ミツ子さん(80)=国東市国東町鶴川。1946年19月、叔父らと引き揚げを図る〉 亡くなった母と末の妹が入った骨箱を携え、雇った漁船で旧満州国安東から鴨緑江を下り、祖国を目指しました。...
太平洋戦争末期の1945年、染矢直己さん(91)=大分市上宗方=は福岡県大牟田市で高射砲隊の兵士として空を見つめ続けた。「日常の何げない生活がどれだけ幸せで大切なことかを思い知った」。入隊から終戦までの8カ月間を振り返った。 <旧...
<1945年7月27日、染矢直己さん(91)=大分市上宗方=が配属された福岡県大牟田市を再びB29が襲う。死傷者867人、被災戸数は8230戸〉 夜中に照明弾で真昼のように照らされた市中心部に大量の焼夷(しょうい)弾が雨のように降...
国のために死ぬ覚悟でいるのが当然とされた時代。酒井治郎さん(97)=大分市羽屋=は戦地に飛び込み死にゆく仲間、次第に武器がなくなっていく現実を目の当たりにした。終戦後は捕虜として捕らえられ、カラガンダ(旧ソ連)の収容所ではわずかな作物で飢...
<1945年8月、大分市羽屋の酒井治郎さん(97)は満州・吉林省で防衛陣地の構築をしていたところ終戦を知った> ソ連軍に撫順市に集められ、武装解除となりました。すぐに、捕虜になるのは嫌だと多くの仲間が騒ぎ、同じ考えを持つ者同士で国...
太平洋戦争での日米の転換点と位置付けられる1942年6月のミッドウェー海戦。米軍の攻撃で日本海軍は空母4隻など主力を失った。撃沈された空母の「加賀」に乗船していた湯沢美次(みつぐ)さん(95)=別府市上人仲町=は、猛火に包まれた艦から海に...
<1942年のミッドウェー海戦で脚にけがを負いながらも九死に一生を得た湯沢美次さん(95)=別府市上人仲町。2カ月で回復し、当時日本の統治下にあった台湾の台南海軍航空隊に配属された> 海軍経理学校(東京)で学ぶため一時帰国しました...
旧日本軍が中国大陸で戦闘を続けていた太平洋戦争中の1942年、小野勝さん(93)=豊後大野市三重町鷲谷=は陸軍の召集を受け、終戦まで大陸各地を転戦した。「日本人は何のために戦争をしたのか。何のために犠牲を払ったのか」。絶望感すら覚えた3年...
<1944年春、太平洋戦争の戦況が悪化する中、旧日本軍は南方の資源地帯と日本本土を結ぶ陸路確保と、大陸の米軍航空基地占領を目的とした「大陸打通作戦」を始めた。小野勝さん(93)=豊後大野市三重町鷲谷=が所属する野戦重砲兵第14連隊も南進す...
「戦争は人間から恐怖心さえも奪う。いつ死んでもいい覚悟だった」―。太平洋戦争中盤から終戦まで戦況の悪化に伴い、満州やフィリピン、ニューギニアなどを転戦し、何度も九死に一生を得る経験をした佐伯市堅田の田深孝さん(95)。「思い出すだけで惨め...
<乗船していた輸送船「瑞穂丸」が米軍の攻撃で沈没し、生き残った田深孝さん=佐伯市堅田=はフィリピン・マニラでの療養を終え、帰国した。故郷からやって来た父と再会する> 広島に戻り、陸軍船舶部隊「暁2953部隊」へ再度、配属されました...
「われわれは、ここで自決する」。敗戦直後の混乱の中、上官から迫られた生と死の選択。ソ連軍の捕虜となり、飢えと寒さに苦しんだシベリアでの抑留生活。「今でも克明に思い出す」。石橋龍二さん(92)=大分市明野南=は遠い昔の記憶をゆっくりと語り始...
<1945年8月24日、石橋龍二さん(92)=大分市明野南=らは満州・間島でソ連軍によって武装解除された> ソ連軍の兵士が銃を構えて立っている前に、仲間たちが次々と武器を投げ出していました。間島収容所では3度の食事はあるし、夜はわ...
1943年4月、東京の大学に入学したものの戦況の悪化や学徒出陣のため勉強することができなかった日田市亀山町の石松博さん(90)。学徒兵として爆弾を抱えて戦車に飛び込む作戦の訓練を繰り返した。つらいことがあるたびに、「始末が付かんねえ」(日...
<前橋陸軍予備士官学校を卒業した日田市亀山町の石松博さん(90)は1945年6月、陸軍水戸連隊(茨城県)の第一機関銃中隊に配属。米軍が上陸する本土決戦に備えて福岡県福間町(現・福津市)に配備された> 九州出身者という理由で先遣隊に...
太平洋戦争末期に竹田市三宅の古庄義光さん(91)は満州の陸軍部隊に配属された。爆弾を抱えて米軍の戦車に自爆攻撃をすることが決まっていたが、作戦決行の直前に終戦を迎えた。生き永らえたことに負い目を感じ、捕虜として満州をさまようこと約2年。脱...
<満州の周水子陸軍飛行場に配属された竹田市三宅の古庄義光さん(91)は米軍の戦車に自爆攻撃を仕掛ける訓練を重ねていた。沖縄への出撃を控えた直前に終戦。大連にあるソ連軍の捕虜収容所に連行され、日本軍から奪った戦利品を運ぶ作業を命じられた> ...
国東市国東町浜の山本清六さん(99)は戦時中、北九州市小倉北区にあった旧陸軍の兵器工場「小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)」で空襲を体験した。けがもなく無事に生き残ったが、一緒に働いていた80人以上が犠牲になった「あの日」が今も忘れられない...
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