戦後70年を前に、戦争の記憶を風化させず、その悲惨さ、平和の大切さを次世代へ伝えていこうと、2014年4月にスタート。他国での戦火、空襲、引き揚げ、学徒動員、銃後の守り…。県内にいる体験者の貴重な証言を本紙記者が聞き取り、「戦争とは何か」を学び、伝える長期企画。
※大分合同新聞 夕刊 2014(平成26)年4月1日~2020(令和2)年3月23日掲載
宇佐市南宇佐の藤垣シズ子さん(82)は、子ども時代を朝鮮半島で過ごした。終戦後は平穏だったそれまでの暮らしが一変。過酷な日々となった祖国への引き揚げ体験を語った。 <同市で生まれた後、子ども時代は父親の仕事の関係で朝鮮半島で過ごし...
<朝鮮半島で子ども時代を過ごした宇佐市南宇佐の藤垣シズ子さん(82)と家族は、終戦後すぐにそれまで暮らしていた父親の会社の社宅を追われた。日本へ引き揚げるため北緯38度線を越え、引き揚げ船で長崎県佐世保港に着いた> 服は着の身着の...
小学校時代を満州で過ごした大分市坂ノ市の姫野キヨ子さん(83)は、終戦の年、父母を続けて失った。小さな胸にピストルを突きつけられても生き延び、幼い弟たちを連れて引き揚げた。苦労しながら母親代わりとなって育ててくれた叔母は数年前に亡くした。...
<満州で小学校時代を過ごした大分市坂ノ市の姫野キヨ子さん(83)は終戦の年、母を亡くした。父は出征したまま帰らず、2人の叔母ときょうだい4人の6人で暮らしていたところ、自宅にソ連兵が強盗に押し入った> 終戦後すぐ、まだ夏でした。あ...
<幼い弟たちと満州の奉天(現・瀋陽市)で苦しい日々を送っていた大分市坂ノ市の姫野キヨ子さん(83)。日本へ帰国する引き揚げ者たちが連日、奉天に集まっていた> 日本へ帰る人たちが満州各地から続々と奉天の体育館に集まってきました。体育...
1945年、大分市丸亀の中村寿夫さん(88)は銃器の整備兵として千葉県館山市の「洲ノ埼(すのさき)海軍航空隊」にいた。「お国のために兵隊へ」「名誉の戦死」と教えられ、迷わず入隊したものの4カ月で終戦。戦争一色だった当時を「洗脳されたようで...
太平洋戦争中、満州の病院で従軍看護婦として働いた中津市三光上秣の土井君子さん(93)は中国大陸で9年余りを過ごした。終戦直後にはソ連軍の爆撃に遭い、ようやくたどり着いた部隊の跡地で中国の捕虜となった。衛生兵の寿美男さん=故人=と現地で結婚...
<満州の東安で従軍看護婦をしていた中津市三光上秣の土井君子さん(93)は1945年8月9日、上官の命令に従って貨物列車で逃げる最中、ソ連軍の戦闘機から爆撃を受けた> 初めに運転士がいた場所が爆破されました。コンテナには兵隊や看護婦...
<従軍看護婦として満州で終戦を迎え、中国の捕虜となった中津市三光上秣の土井君子さん(94)。騎兵隊跡で過ごした2年弱を経て、旧日本軍の命令に従うまま中国各地を転々とするようになった> ある日突然、日本軍の元兵隊が、捕虜から解放され...
大分市古国府の利光敬司さん(88)は15歳で鹿児島海軍航空隊に入隊した。飛行予科練習生となったものの実際に空を飛ぶことなく1年弱で終戦を迎えた。多感な少年時代。今も手元に残る当時の日記帳には、きちょうめんな字で訓練生活や派遣先の長崎で目撃...
<鹿児島海軍航空隊に15歳で入隊し、飛行予科練習生として訓練に励んでいた大分市古国府の利光敬司さん(88)は1944年10月末、空襲の影響で福岡県糸島市の小富士海軍航空隊へ転隊した> 小富士基地は、バラックの建物で鹿児島とは全く違...
豊後高田市美和の大波多茂子さん(86)は満州で生まれ育ち、14歳で終戦を迎えた。終戦後はソ連兵の襲撃におびえながら、日本に引き揚げるまでの9カ月間を過ごした。戦争がもたらした惨めさは今も忘れない。当時の不安と恐怖を語った。 <大連...
<満州で終戦を迎えた豊後高田市美和の大波多茂子さん(86)。それまでの生活は一変し、家族3人でソ連兵の侵攻におびえる日々が続く> 父は一度、ソ連兵に連れて行かれました。数週間後に帰って来ましたが、心配でしょうがなかったです。亡くな...
中津市耶馬渓町平田の甲斐年夫さん(96)は戦車連隊や兵器勤務隊に所属し、中国北部などで旧ソ連軍との戦闘に参加した。終戦後は約3年、シベリアの収容所で過酷な労働を強いられた。「何度も死を覚悟した。戦争というのは、とにかく、むちゃくちゃなもの...
<終戦を知らずに約2週間、移動を続け、最後はソ連兵に包囲されて投降した中津市耶馬渓町平田の甲斐年夫さん(96)。帰国できるという話を聞いていたが、すし詰めの列車は国境を越え、ソ連領に入った。帰国はかなわなかった> 列車は川を渡り、...
豊後高田市上香々地の芳本清一郎さん(92)は父と同じ教育者の道に進んだものの、わずか4カ月で戦地に送られた。満州で終戦を迎え、混乱する現地の様子を目の当たりにし、ソ連軍による強制労働も課せられた。「戦争は一つもいいことない。負けたら惨めな...
<4カ月の教員生活を経て、満州の戦地で重機関銃中隊の配属となった豊後高田市上香々地の芳本清一郎さん(92)は終戦を迎えた後も苦難が続いた> 1945年7月に満州と朝鮮国境の安東から大連の周水子に移り、幹部候補生教育を受けました。玉...
竹田市玉来の高橋幸夫さん(88)は国のために働く父の背中を見て、両親に相談することなく海軍飛行予科練習生(予科練)を志願した。15歳で松山海軍航空隊に入隊。約3カ月間の訓練を受けた後、福岡海軍航空隊などを経て長崎県にあった震洋特別攻撃隊で...
<福岡海軍航空隊での訓練も終わりに近づいた1945年3月、竹田市玉来の高橋幸夫さん(88)は特攻隊へ志願した> 夕食後「14期練習生全員練兵場に集合せよ」と号令が掛かり「いよいよ来るべき日が来た」と感じました。上官の「志願者は一歩...
大分市千歳の穴井千秋さん(90)は1926年に九重町で生まれ、高校卒業後、南満州鉄道(満鉄)に就職した。終戦後、捕虜としてソ連に抑留され、寒さや食料難に耐えながら働いて生き延びた。多くの仲間の死を目の当たりにして「戦争の悲惨さを次世代に伝...
<旧満州の通化で、256工兵隊員として訓練をしていた際に終戦を迎えた大分市千歳の穴井千秋さん(90)は、ソ連兵による武装解除の後、貨物列車でイルクーツクへ連れて行かれた。食料も満足にない極寒の地で強制労働が始まった> バイカル湖近...
1920年代に職業軍人として朝鮮半島に渡った宇佐市安心院町出身の父親と、中津市出身の母親との間に生まれた尾部卓美さん(80)=東京都羽村市=は、終戦の日を半島で迎えた。現地の警察署長となっていた父親が進駐ソ連兵に捕らえられ、残された家族で...
<朝鮮半島北端の町・新迦波で終戦を迎えた東京都羽村市の尾部卓美さん(80)=当時7歳=は母親に連れられて本土への逃避行を始めた。数十日間、手引きしてくれた父・松男さんの部下、金巡査部長とは道中で別れ、不安に満ちた日々が続いた> あ...
<終戦後、朝鮮半島北部から逃げ、生き延びた東京都羽村市の尾部卓美さん(80)=当時7歳=は、過酷な道中を助けてくれた現地の住民や兵士への感謝を今も忘れていない> 38度線の手前で、本土を目指す日本人たちを一時的にかくまう「世話人会...
臼杵市野津町垣河内で穏やかに暮らす川野信行さん(94)。青春時代に入隊し、約2年にわたり中国大陸で過ごした。日々を送る土地が戦地となった悲惨さや戦場の哀れさを目の当たりにし、「図らずも戦争を体験した人間にしか分からない苦労と悲しさがある。...
<1944年、旧日本陸軍の中国内陸部を縦断し、インドシナ半島への陸路確保や大陸の連合国軍航空基地占拠を目的とした「大陸打通作戦」が始まった。川野信行さん(94)=臼杵市野津町垣河内=が所属する野戦重砲第6連隊第2中隊も中国内陸部の激戦地を...
豊後大野市清川町の橋本栄子さん(80)=旧姓和田=が教師だった父親の仕事の関係で、一家で朝鮮半島に渡ったのは1歳を迎えるころ。現地ではきょうだいも増え、平穏に暮らしていたが、終戦直前に父親が召集され混乱に陥る。11歳で一人日本に引き揚げて...
自身が1歳を迎える頃、両親と3人で朝鮮に渡った豊後大野市清川町砂田の橋本栄子さん(80)=旧姓和田。父が終戦3日前に召集され、その後シベリアに抑留。8歳のときに、母、妹、弟と一緒に引き揚げを始めた。 <1945年の冬、引き揚げを諦...
日田市隈の後藤稔夫さん(96)は、満州で就職した後、現地の機動歩兵第一連隊入隊や群馬県の前橋陸軍予備士官学校に入り、千葉県四街道市で終戦を迎えた。戦地に赴くことはなかったものの、日本軍の幹部候補生として戦争に向き合った。国同士の対話の大切...
<満州で就職後、幹部候補として陸軍見習士官になった日田市隈の後藤稔夫さん(96)は1944年8月、戦況の厳しい硫黄島へ行く名簿からは外れ、陸軍第203連隊に配属されて千葉県四街道市へ行った> 150~200人の隊員が所属する第20...
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