大分合同新聞社が創刊120周年記念企画の一環として選定した「おおいた遺産」を紹介した長期連載。「おおいた遺産」は「未来に残したい大分はありませんか」と広く公募し、学識経験者やツーリズム関係者らの「おおいた遺産選定委員会」が120件を選んだ。
※大分合同新聞 夕刊1面 2007(平成19)年4月2日~2011(平成23)年12月21日掲載
春の潮が寄せる別府湾に面し、陽光をいっぱいに浴びる南下がりの斜面。その高台に菜の花の黄色いラインが引かれているなか、ひときわ明るく高い桜色のふくらみがある。今年も「魚見桜」は見事に花を開いた。 ところは日出町の豊岡。...
臼杵の旧城下町をめぐる散策は楽しい。国土交通省の「都市景観100選」に選ばれた町並みである。大友宗麟の丹生島城に始まり、江戸期に臼杵藩・稲葉氏によって造られた基本的な町筋は、歴史の風に吹かれ、時の重みを感じ取りながら歩きたいところ。...
くじゅう山群の東端に深い自然林をまとった山がある。遠望すると黒く見え、その名も黒岳。複式火山で、頂上部に「みいくぼ」と呼ばれる直径1kmほどの爆裂火口跡がある。火口壁には5つのピーク。西側の高塚(1587m)が最高点。東寄りの巨岩の積み重...
大地に鋭く刻み込まれた巨大な溝。長さ約12km、深さ20mから60m、幅は広いところでさえ8m程度、狭いところでは4mぐらいしかない。そこに多量の水が流れ、早い瀬となり、深い淵(ふち)を見せる。県名勝・由布川峡谷である。...
春は桜、夏は森の緑や積乱雲、秋は紅葉、そして冬は雪。ダムの湖面は四季おりおりに自然の色を映す。だが、変わらないのは堰堤(えんてい)を滑り台とする水の、白く美しい泡の模様。それでも、水量によって微妙に変化して飽きさせないし、訪れる人の心を癒...
「ミヤマキリシマ咲き誇り、山紅(くれない)に…」と歌われるように、連山に花の絨毯(じゅうたん)が敷きつめられるようになった。アケボノツツジ、シャクナゲと、花の開花期を追って開かれた大分の山々も、この花を迎えてのくじゅう山開きで、梅雨をはさ...
棚田とは、傾斜地にある稲作地の集積。狭い田んぼが重なって、一目で見渡せる。英語でライス・テラスと言うように、たくさんのテラスが積み重なる。畑の場合は段々畑である。 稲作の適地は、水利に恵まれ、しかも水はけの良い土地。日本列島はもともと...
耶馬十渓のうち、椎屋耶馬渓の一角にあるのが岳切(たっきり)渓谷。椎屋というと東西の椎屋の滝など豪快な水風景や岩柱、岩壁などの景観を思い起こすが、岳切渓谷はあくまでも水が優しく、人々と戯れてくれるところである。そこでは、人は水と一体になる。...
「豊後仏国」という言葉がある。「ぶ」の音を並べて口になじみやすい。豊後の国は仏様の多い土地だ、仏教の広がっているところだなどと解釈できよう。 仏の国、仏の里といえば大分県では国東半島の「六郷満山」をすぐに思い起こすが、実はそれと肩を並...
それはまさに「水の子」である。造化の大きな力が海の底から取り上げた、豊後水道の申し子である。佐伯港から28km、四国の御五神島(おいつかみじま)から15km。水道の真っただ中に浮かぶ。 九州本島の最も東の端とされる鶴御崎(つるみさき)...
「九州の屋根」と呼ばれる「くじゅう山群」は、自然が持つ多様な顔を見せてくれる。中でも卓越するのが高原の景観。おそらく全国でも屈指の草原美と言ってよかろう。そしてその中に、ラムサール条約に登録された坊ガツル・タデ原湿原がひっそりと眠っている...
国東半島の付け根、杵築市街地の前面に守江湾がある。海に面して立つ杵築城の南には八坂川、北には高山川があって、両川が運び込む土砂により広い干潟が生まれた。干潮時には東西およそ1.5km、南北2kmに及び、全国的にも珍しいカブトガニの生息地と...
くじゅう山群が火山として成立し、今なお強烈な火のエネルギーを蓄えていることの証しが硫黄山の壮大な噴気である。その力を現代人に見せつけてくれたのが、1995年10月の爆発。記録に残るところでは、257年ぶりの「噴火」とも言える大きな活動だっ...
江戸時代、天領の日田が生んだ学者、教育者、そして詩人でもある広瀬淡窓が開いた私塾が咸宜園(かんぎえん)。広かった敷地のうち、東塾の跡に現在、秋風庵、遠思楼などが残され、1932(昭和7)年に大分県で最初の国史跡に指定された。...
今から何千年前になるだろうか、先史時代に姫島に漕ぎ寄せる縄文人の丸木舟があった。彼らは今の観音崎で、黒曜石の断崖(だんがい)を見つけて狂喜したことだろう。さっそく採取して持ち帰り、槍(やり)の穂先や矢尻、包丁などに加工した。九州だけではな...
軽くトーン、あるいは鈍くドスッ。音色は微妙に違うものの、陶土を砕く唐臼の音が狭いながら明るい谷間に流れる。その響きは「日本の音風景百選」だが、ここ皿山に生まれる小鹿田焼は全国でも屈指の民陶である。 日田盆地からかつての英彦山参拝道の小...
笠(かさ)を伏せたような円形の国東半島。それは「くにさき火山」とも呼ばれ、中央部の高まりから四囲に向かって、山の尾根とそれに挟まれた渓谷が放射状に延びている。放射の中心点は半島最高峰の両子山(標高721m)。山頂に立つと、半島の地形的特色...
豊後富士・由布岳の北のふもと、東西およそ4kmにわたって標高600m前後の明るい広がりがある。それが塚原高原。日出生台、十文字原などの高原とともに、由布・鶴見山群が生んだ草の原の1つである。...
国東半島の西の端、真玉(豊後高田市)の干潟に落ちる夕陽(ゆうひ)はまさに壮大である。刻一刻、夕陽の輝きは千変万化する。その日の潮の干満によって、あるいはその日の天候によって、さらには見る場所によって、真玉海岸の夕陽は同じ姿で落ちて行くとい...
川面を渡る寒風。それをはね返す勇壮な掛け声「ホーランエンヤ…」。川岸の観衆から祝儀が贈られると、船からしぶきを上げて厳寒の水に飛び込み、抜き手を切る締め込み姿の若者。それに応えて岸と船から沸き起こる拍手と歓声。豊後高田の新年は桂川からやっ...
旧暦正月、国東・六郷満山ではかつて多くの寺院で鬼が舞った。今それは、半島の西側では天念寺(毎年)=豊後高田市、東側では成仏寺と岩戸寺(隔年交代)=いずれも国東市=に伝わる修正鬼会(しゅじょうおにえ)だけとなった。いずれも国指定の重要無形民...
玖珠盆地の北縁に近く標高576mの角埋山がある。玖珠町森地区のシンボルともなる山。盆地周辺の山々に比べると低いが、姿はテーブル状の山(メサ)の頂上部が狭くなったビュートと呼ばれる地形でよく目立つ。その地勢を利用して古く山城が築かれた。城名...
鶴見岳連嶺(れんれい)のふもとから別府湾の波打ち際まで、別府市街地は緩やかな傾斜を見せて広がる。緑の山と青い海の間で、街は色とりどりのモザイク模様。泉都は自然と街と人が温かい風景を繰り広げ、そのアクセントとなるのが別府タワーである。 ...
杵築城下は坂の町である。天守閣(昭和45年再建)の立つ城山はじめ、武家屋敷の並んでいた北台、南台はすべて坂の上である。元禄年間に豊後を旅した福岡藩の儒者・貝原益軒(かいばらえっけん)は『豊国紀行』のなかで「木付(きづき)の町は山と谷とに有...
槍(やり)のように突き出した佐賀関半島。高島を置いて、四国の佐田岬と対峙(たいじ)する。その間が豊予海峡。およそ15km。瀬戸内海と豊後水道の潮がせめぎ合う。流れは速く激しい。このため「速吸(はやすい)の門(と)」と呼ばれ、その名も「早吸...
宇佐市の真ん中を流れる駅館川の右岸台地に「宇佐風土記の丘」がある。ここが風土記の丘になり、県立歴史博物館が置かれたのは、一帯に多くの古墳があるからだ。地名を取って川部・高森古墳群と呼ばれ、6基の前方後円墳を中心に、円墳や周溝墓(しゅうこう...
大分市中心街と南大分地区を限るかのように、長く延びる丘陵がある。標高およそ70m。まるで伏せた竜の姿。その臥竜(がりゅう)の頭部に当たるところが上野の森。一段低く標高30m辺りに上野丘の街並みが広がり、台地が大分川河畔の元町に切れ落ちたと...
城山は佐伯市のシンボルであり、市民の心のよりどころである。国木田独歩は『豊後の国佐伯』の一節にこう書いている。 「佐伯の春、先(ま)づ城山に来(きた)り、夏先づ城山に来り、秋又(また)早く城山に来り、冬はうそ寒き風の音を先づ城山の林に...
国東半島沖に浮かぶ姫島は、九州と中国地方、また周防灘と瀬戸内海を結ぶ海の十字路であり、船にとっては島そのものが灯台の役を果たしているが、そこはまた、南北に1,000km以上を移動する渡りのチョウ・アサギマダラにとっても大切な島。今では日本...
ハナショウブは雨の季節がよく似合う。6月には、奥別府の神楽女湖(かぐらめこ)で約3万本が花開き、妍(けん)を競う。今では九州屈指の名所として、全国的にも広く知られるようになった。 鶴見岳の登山口である九州横断道路の鳥居から南東へ約2....
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