失敗は500種類以上。なぜ、主婦が育毛剤を手作りしそれを口に含んだのか……病気、震災、介護を乗り越えて辿り着いた特許と「誰にでもできること」をやり続ける意味

神戸市長田区の町で、変わった歯磨き粉を生み出した主婦がいる。今年70歳になる竹内洋子(たけうち ようこ)さんは、口腔ケア用品「デンタアプローチ」を開発した人だ。
https://dentaapproach.com/
高野槙(以下、コウヤマキ)エキスの殺菌効果を発見し、特許を取得して商品化に至った。この商品の愛用者からは「ひと月ほどで歯周病が改善した」「磨いた後は口の中がスッキリ」と生産が追い付かず数か月待ちとなった事もあるほど人気を集めている。
「きっと、その道のプロなんだろう」と思うかもしれない。だが、彼女の本業はうどん屋で主婦だった。いったい、どのような道のりを経て、商品開発に辿り着いたのだろうか。
賑やかな長屋の末娘、病と闘う幼少期
洋子さんの人生は、大阪西成区の長屋から始まった。幼い頃、父の兄が早くに亡くなった影響で、家には10人以上の兄弟やいとこがひしめき合っていた。
洋子さんの幼少期は、体調不良との闘いであった。子どもの頃から体が弱く、よく貧血で倒れたり、寝込んだりした。両親からは「20歳まで生きられるのだろうか」と常に心配されていたという。
病名がわからず、母とともに様々な病院を回った。その頃から、洋子さんは「自分には将来がないんだろうな」と感じていたという。
転機が訪れたのは中学2年生の頃。甲状腺の病(バセドウ病)と診断され、喉の手術をした。次第に病状が改善に向かい、将来に初めて明るい兆しが見えてきたのである。
「大きくしてね」と天の声
短大卒業後、伯母の紹介で見合いの話が持ち上がり、24歳で神戸市長田区にある商店街でうどん屋を営む夫と出会った。
トントン拍子に結婚の話が進んだある日。結納の際に夫の店に入ると、急に寒気がした。それとともに、どこからか「大きくしてねー」という女性の声が聞こえた。洋子さんは「え?」と辺りを見回すが、誰もいない。
「その声を聞いた後、思わず『うん、わかった』って返答しちゃったんです。だから、その場にいた姑(義母)に『お母さん、ここにビル建ててあげるわね』って話しました。『この嫁は、突然何を言い出すんだろう』って感じで、びっくりされました(笑)」
しかし、これは前途多難な人生の幕開けだった。
その一つが、義母の少々行き過ぎた性格である。義母は、洋子さんが持病で入院していた時、病室で「体の弱い嫁はいらんかった」と言い放つような人であった。
それでも、洋子さんは義母に認めてもらいたいと思っていた。その一心で、必死にうどん屋で働いた。その間に、長男と長女が生まれ、子育てと仕事でめまぐるしい日々を送る。
すべてを狂わした震災
15年後、洋子さんは、義母との「ビルを建てる」という約束を実現する。うどん屋の隣にあった土地を買い取り、店の拡大工事に乗り出したのだ。
数千万円の費用がかかった。店の売り上げだけでは補填できず、借金も伴ったが、洋子さんはまったく不安を感じなかった。
ビル建設が決まった後、洋子さんに対する義母の態度は、ガラリと変わった。
「お義母さんはもう忘れてるかなって思ってたんだけど、『あんた、嘘つきじゃなかったわね』って言われて。きっと、私のことを認めてくれたんだと思います」
1995年1月16日。1年間の休業を伴い進められたうどん店の拡大工事が完成。しかし、その翌日の1月17日、阪神・淡路大震災が発生した。
洋子さんは震災が起こった瞬間をこのように語る。
「まるで、遊園地のコーヒーカップに乗ってるみたいでした。ドーンと落ちるような感覚があって、その後、ずっと回されているような……。早朝だったから、まだ寝ている時に布団の上にテレビやタンスがダーッと落ちてきました」
この時、彼女は義理の両親と店から少し離れた場所の一軒家で暮らしていた。2階で寝ていた子どもたちも無事だった。
「おかあはん達見に行ってくるわ!」と外に駆け出した夫の利幸さん。洋子さんは、子どもたちとともに足の踏み場がない部屋を片付けた。
しばらくして夫が暗い顔をして戻って来た。
「おかあはん、死んだ」
義父と義母の家は、完成したビルの隣にあった。商店街は古い建物が多く、被害が大きかった。義母は、家の屋根の下敷きになって亡くなっていた。
洋子さんは、「そんなん、うそや!」と叫びたい気持ちを押さえながら、商店街に向かう。
その道中、彼女は改めてこの震災のひどさを目の当たりにする。ぺしゃんこになった家屋、救助を待つ人、その家族の悲痛な声。震災は、人々の日常をあっけなく壊していった。
そして商店街は、火災に襲われていた。新築のビルは全焼は免れたものの、外壁が焼け焦げていた。義母に約束したビルの建設。ともに喜ぶことができなかったことが洋子さんは悔しくて仕方がなかった。
「後から聞いた話ですが、震災前日、お義母さんは完成した新しい建物を前に万歳三唱して、明日じっくり中見せてもらうわと言って帰ったそうです」
辿り着いた「バカバカしい研究」
震災後、悲しみに浸る余裕がないまま時が過ぎた。店を改装した借金の返済が始まったが、すぐに店を再開できず、貯金を切り崩した。加えて、義母を失ったショックからか、義父に異変が起きた。
義父は「お母さんから電話があって、迎えに来てくれと言っている」と言い出したり、食事を済ませたのにもかかわらず、「ご飯はまだ?」とつじつまの合わない言動を見せたりした。やがて暴れるようになり、家の壁やテーブルを叩き壊した。
周囲の人たちは震災の影響で困っている状況である。洋子さんは外部に助けを求めることができず、うどん屋の立て直しよりも、目の前の家族を守ることに必死だった。
この絶望的な状況下で、洋子さんが取り組んだのが、義父の介護の一環としての育毛剤研究であった。
「毎日、肩揉みをしながら、お義父さんの禿げた頭を見て、『毛が生えたら若返って、認知症もよくなるのではないか』と思ったんです。バカバカしいことを考えるでしょう? でも、そのバカバカしいことに集中している間だけが、辛い現実を忘れさせてくれる時間だったんです」

研究といっても、薬局で育毛剤を買うのではない。身の回りにある野菜の芯や茎、トウモロコシやタマネギを絞ったエキス、さらには金魚鉢の苔などをお酒やオリーブオイルに漬けて頭に塗り込むという「家庭実験」であった。
洋子さんの「捨てるものはとりあえずやる」という考えで、数100種類以上の植物を試したが、義父の毛が生えることはなかった。
「あの時は、通帳残高が1000円になったこともあったなぁ」と洋子さんはあっけらかんと笑う。
結局髪の毛を生やしてあげることはできないまま義父は、震災から4年後に亡くなった。
入れ歯宣告とコウヤマキ
その後、夫の髪も次第に薄くなり始めたことから、彼女はますます育毛剤の研究に傾倒していく。「夫には、『痛い、かゆい、臭い』と嫌がれたんですけど、お構いなしに塗ってました」と洋子さん。
そしてその頃、彼女自身も体の不調に悩まされた。重度の歯周病と診断され、42歳で入れ歯宣告を受ける。入れ歯になりたくなかった洋子さんは、家中に残っていた育毛剤の失敗作を自分の歯茎に塗り込む実験を始めた。
「私の歯も育毛剤の失敗作もどうせ捨てるもん!どうにでもなれと思いました。」
そこで、洋子さんの人生を変える大きな出会いが訪れる。
市の区画整理で、義父母の家が取り壊されることになり、洋子さんは義父母の仏壇を整理していた。傍には30㎝ほどの大きな花瓶があり、いつも花を飾っていた。関西では生花と一緒に飾ることが多いコウヤマキとともに。
コウヤマキとは、日本固有の針葉樹で、和歌山県の高野山に多く生えていることから名付けられた。
この日も花を飾るために花屋に向かうと、立派なコウヤマキが出てきた。洋子さんは思わず見惚れて、こう思った。
「今度はこれを使ってみよう」

研究者が鳥肌が立った「主婦の発見」
さっそくコウヤマキを口に含んでみた。すると、口の中が燃えるような強い刺激があった。「これは、あかんわ」と思った洋子さん。そこで、刺激を和らげるために改良を重ねた。これを歯茎に塗り込み、マッサージを続けた結果、すぐに効果が表れた。
毎週のように歯医者に通い、痛み止めに頼っていた重度の歯周病が改善し、2年半も歯医者に行かなくて済むようになったのだ。
ある日、歯の詰め物が取れて歯医者に行った際、洋子さんの口内を見た主治医は驚き、大学での実験を勧めた。そこで知人のつてをたどり大阪歯科大学での実験を行うこととなった。歯周病菌を培養したシャーレにエキスを滴下したところ、128倍に薄めても効果が出た。
「実は、コウヤマキ自体が特殊な木でした。今までコウヤマキはスギかマツかに分類されるかどうかと、判断が揺れ動く木で、専門家はあまり研究することがなかったそうなんです」と洋子さん。
この研究に着手した年に、「コウヤマキ科コウヤマキ」と分類され、独立した種になった。その後、この木は、秋篠宮家の悠仁親王のお印(しるし)としても選ばれている。大学の研究者からは「あまりにも偶然が重なりすぎて、鳥肌が立った」と言われたという。思い付きで始めた主婦の研究が、世の中の常識を変えた瞬間だった。

注文殺到の末、娘と事業展開
その後、洋子さんは知り合いのつてで健康食品の社長に歯周病予防ケアの商品づくりを相談。その過程で、その社長に「他にはない商品だから」と促され、特許を取得。2007年、口腔ケア用品の商品化にこぎつけた。
デンタアプローチ | 歯科専門オーラルケア
商品化後、産経新聞の取材で大きく報道され、注文が殺到。3日間で売り切れた。コウヤマキエキスの抽出に3ヶ月かかるため、顧客を待たせる事態に。心斎橋にある東急ハンズからも「うどん屋がつくる歯磨き粉」として問い合わせが入り、話題を呼んだ。

失敗作はついに500種類を超えた…それでも続ける理由
洋子さんはもともと身体が弱く、「子どもの頃は自分の未来を描けなかった」と言っていた。けれど、今の彼女の眼差しは力強い。
「父がよく『洋子ちゃんにも、できることが必ずある』って話してくれてました。ホンマそうやなと思うんです。『誰にもできへんこと、自分にしかできない事を見つけなさい』って言葉があるけど、そんなん、できへんよ。大谷翔平じゃあるまいし。『誰にでもできることでいい。人が笑うことでもいい。自分が出来ることを続けなさい』って背中を押してくれた父の言葉を、私は皆さんに伝えたいです」
人に笑われるような研究を、家族のため、そして自分のために続けてきた。その先に、彼女だからこそ辿り着いたものがあったのだ。
洋子さんは育毛剤の開発をまだ続けていて、失敗作は500種類を超えた。彼女は今日も、誰かの役に立つことを信じて、研究を続けている。
(取材・執筆:池田アユリ 編集:竹内園絵)
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