「村上春樹を読む」(93)野球のバットを構える少年・村上春樹 戦争を繰り返さないために戦う

 村上春樹が自らの父のルーツについて詳しく書いた「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」(「文藝春秋」2019年6月号)が話題になりました。

 そして、この特別寄稿には、村上春樹が子供時代の写真が2枚掲載されています。

 1枚は父親がキャッチャーとなって、幼い村上春樹が野球のバットを構えて、バッターボックスに立つ写真。もう1枚は自宅の庭で座り込んで猫を抱く8歳の村上春樹の写真です。

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 エッセイのタイトルが「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」というものであり、この文章は村上父子が猫を棄てにいく場面から始まり、終盤で別の猫がある夜、木に登ったまま消えてしまう話が紹介されています。

 ですから「猫」の写真が出てくるほうには、かなりの必然性があります。私は前回の「村上春樹を読む」で、この松の木に上がったまま、降りてこなくなってしまった「猫」の話のことを『スプートニクの恋人』(1999年)との関連で紹介しました。

 『スプートニクの恋人』には松の木に猫が上がったまま、辺りはどんどん暗くなっていったことが描かれています。それを見た「すみれ」は「わたしは恐くなって、家の人に知らせにいったの。みんなは『そのうちに降りてくるから、放っておきなさい』って言った。でも猫は結局もどってこなかった」と話しているのです。

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 でも「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」のほうでは「父に来てもらって、事情を説明した。なんとか子猫を助けてやれないものか。しかし父にも手のうちようはなかった」と書かれていました。

 つまり、この文章では「猫」を媒介にして、父親が呼び出される文章となっているのです。ですから村上春樹作品の中での「猫」が「何かの導き手」となっていることを、前回の「村上春樹を読む」で指摘したのです。

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 今回、考えてみたい1枚は、父親がキャッチャーとなって、幼い村上春樹が野球のバットを構えて、バッターボックスに立つ写真のほうです。キャッチャーミットを構える父とバットを持って、バッターボックスに立つ少年・村上春樹。この写真が何かの意図を持って選ばれているとすると(たまたま村上春樹の好きな写真かもしれませんが)、そこにどのようなものを受け取ることが可能であるか、そのことを考えてみたいのです。

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 まず、「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」は、父親と幼い村上春樹が海岸まで「猫」を棄てにいくと、棄てにいった村上親子より猫が先に家へ帰ってきたことが冒頭に記されています。

 そして、父親が従軍した日中戦争での体験が記され、最後近くに猫を棄てにいった日の記憶が書かれています。前回も紹介しましたが、素敵な文章ですから、もう一度書いておきましょう。

 「僕らはある夏の日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てにいったのだ。そして僕らは共に、その猫にあっさりと出し抜かれてしまったのだ。何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。そのときの海岸の海鳴りの音を、松の防風林を吹き抜ける風の香りを、僕は今でもはっきり思い出せる。そんなひとつひとつのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたち作ってきたのだ」

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 村上春樹作品には「猫」のことが、たくさん書かれていますが、消えた「猫」が家に帰ってくる物語で有名なのは『ねじまき鳥クロニクル』(1994年、1995年)です(『スプートニクの恋人』も、ある意味で、消えた猫が帰ってくる話だと読むことは可能です)。

 『ねじまき鳥クロニクル』は、飼っていた「ワタヤ・ノボル」という名前の大柄の雄猫が行方不明となるところから物語が始まっています。「ワタヤ・ノボル」の名は「僕」の妻の兄の名前から、借りたものでしたが、その猫「ワタヤ・ノボル」がいなくなると、「僕」の妻も家を出て、行方不明となります。

 そして、この『ねじまき鳥クロニクル』の第3部で、行方不明だった「猫」が家に帰ってきます。「僕」は帰ってきた猫「ワタヤ・ノボル」に、スーパーで買ってきた生の鰆(さわら)を与え、それまでの「ワタヤ・ノボル」という名前に替えて、その「猫」に「サワラ」と新しく名づけます。この猫の帰還が、妻の帰還の予兆ともなっている物語です。

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 そして、野球のバットのことですね。

 村上春樹のファンにはとてもよく知られたことですが、1978年の4月のよく晴れた日の午後に、村上春樹が神宮球場へセ・リーグの開幕戦を見に出かけます。ヤクルト・スワローズ対広島カープの対戦です。村上春樹はヤクルトのファンです。

 外野席に座り込んで、ビールを飲みながら試合を見ていると、1回の裏、ヤクルトの先頭打者、デイブ・ヒルトンが、広島の先発ピッチャー、高橋(里)の第1球を、レフトにきれいにはじき返して、二塁打にするのです。

 「バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。僕はそのときに、何の脈略もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。『そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない』と」

 そのように、『職業としての小説家』(2015年)に記されています。

 ですから、「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」の少年・村上春樹が野球のバットを持って、バッターボックスに立つ姿は、将来、村上春樹が小説家となることを暗示する写真であるかもしれません。

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 でも、今回の「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」は、棄てに行った猫の帰還と、父親の中国での従軍体験が書かれた文章ですので、私は『ねじまき鳥クロニクル』の中で描かれたバットについても考えなくてはならないだろうと思っています。

 『ねじまき鳥クロニクル』の中では、バットが繰り返し出てきます。

 例えば、ギターケースを持った若い男に、だしぬけに、野球のバットで思い切り「僕」が肩を叩かれる場面が『ねじまき鳥クロニクル』の第2部にあります。空手の初歩的なテクニックを習ったことがある「僕」は反射的に、相手のからだを蹴りあげて、男の手からバットをもぎ取ります。

 そして、僕は相手の顔を殴り続けます。「もうやめなくちゃいけないんだ」と僕は考えますが、「でもやめられなかった。自分がふたつに分裂してしまっていることがわかった。こっちの僕にはもうあっちの僕を止めることはできなくなってしまっているのだ。僕は激しい寒気を感じた」と記されています。

 ようやく殴るのをやめて、バスに乗り込むのですが、乗客から奇異な目で見られます。「僕の白いシャツに飛んだ男の血(それはほとんど鼻血だったのだけれど)と、手にした野球バットのせいだということに気づくまでにしばらく時間がかかった。無意識にその野球のバットを掴んで持ってきてしまったのだ」とあります。続いて「結局僕はそのバットを家まで持って帰った。そして押入れの中に放り込んでおいた」と書かれています。

 ここは文庫版で6ページくらいの中に「バット」という言葉が、15、6回繰り返されています。『ねじまき鳥クロニクル』にとって野球のバットがとても大切なものであることがわかると思います。

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 そして、この場面は『ねじまき鳥クロニクル』第3部の中で反復して出てきます。これも少し長いですが、紹介してみましょう。

「それから野球のバットの問題がある。シナモンは僕が井戸の底にバットを置いていることを承知している。だからそのバットのイメージが、ちょうど『ねじまき鳥』という言葉と同じように、彼の物語をあとから『侵食した』可能性はある。でももし仮にそうだとしても、野球のバットに関してはそんなに単純に説明のつかない部分があった。あの閉鎖されたアパートの玄関で僕にバットで殴りかかってきたギターケースの男……彼は札幌の酒場で手のひらをろうそくの炎で焼いて見せ、つぎには僕をバットで殴り、僕にバットで殴られることになった。そして僕の手にそのバットを引き渡したのだ」

 これを読めば、『ねじまき鳥クロニクル』という物語にとって、野球のバットがさらに重要だということがわかるでしょう。

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 父親の日中戦争従軍体験のことを書いた「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」との関連からすると、最も重要な野球のバットは、1945年の8月に、中国の新京で、満州国軍士官学校の中国人生徒4人を殺す場面でしょう。彼らは新京防衛の任務に就くのを拒否して、夜中に日系の指導教官2人を野球のバットで殴り殺して脱走し、捕まったのです。逃走する際の姿は「野球のユニフォーム」姿でした。兵営の中には、軍服以外にはこの士官学校野球部のユニフォームしかなかったのです。

 その日系の教官たちは営内の空気が不穏なことを承知して、満州国軍士官学校の生徒に武器を支給しないことに決めていたのですが、「でも野球のバットのことまでは考えなかった」のです。

 捕まった4人の中国人のうち、3人は銃剣で刺し殺されますが、野球チームの主将、4番バッターで、この脱走計画のリーダー格だった男は、野球のバットで殴り殺されます。その4番バッターだったリーダー格の男が、日系の指導教官2人を野球のバットで殴り殺したからなのでしょう。

 日本軍の中尉が、1人の若い兵隊を呼んで、バットを手渡し、「それを使って、あの男を殴り殺せ」と言います。

 中尉は、若い兵隊に(彼は野球をやったことがありません)、バットのスイングの方法を教えて、「いいか、思い切りよくなるべく一発で楽にしてやれ。時間をかけて苦しませるな」と言います。

 さらに「俺だってなにも野球のバットで人を殴り殺したくなんかないんだ、と中尉は言いたかった。いったいどこの誰がそんな馬鹿なことを思いついたんだ。でも指揮官が部下に向かってそんなことを口にするわけにはいかない」と記されています。

 そして、兵隊は、バックスイングをして、大きく息を吸い込み、そのバットを力まかせに中国人の後頭部に叩きつけたのです。

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 そして物語全体で一番重要と思われる野球のバットが、『ねじまき鳥クロニクル』の第3部の最終盤に描かれています。

 大長編『ねじまき鳥クロニクル』を、簡単に要約することは至難のことですが、でも敢えて、要約してみますと、自分の前から、突然、いなくなってしまった妻・クミコを、長い時間をかけて取り戻す物語です。「僕」は「君を連れて帰る」「そのためにここに来たんだ」とクミコに話しています。「間違いなく、はっきりそう言えるのね?」と彼女が念を押すと「はっきりとそう言える。僕は君を連れて帰る」と応えています。

 すると彼女が「あなたにひとつプレゼントがあるのよ」と言うのです。そうやって、暗闇の中に差し出されたものは「野球のバット」でした。

 「僕はそのバットのグリップのところを握ってまっすぐ宙にかざしてみた。それはたしかに僕がギターケースの若い男から取り上げたバットのようだった。僕はその握りのかたちと、重さをたしかめた。たぶん間違いない。あのバットだ」とあります。

 そのバットには、血が糊(のり)のように固まったところに人間の髪の毛が付着しています。誰かが、そのバットを使って誰かの――おそらくは綿谷ノボルの――頭を強打したのだ、と記されています。

 彼女が「それはあなたのバットでしょう?」と言い、「たぶん」と僕は感情を殺して答えています。

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 前述したように、綿谷ノボルは、妻・クミコの兄の名前です。その綿谷ノボル=ワタヤ・ノボルから、猫の名前がつけられています。その猫のワタヤ・ノボルが行方不明となると、妻・クミコも失踪し、ワタヤ・ノボルが家に帰ってきて、その名前がサワラ(鰆)に変更されることが、妻・クミコの帰還の予告ともなっているという展開に『ねじまき鳥クロニクル』はなっています。

 そして、僕が妻を「連れて帰る」には<戦わなくてはならない>のです。綿谷ノボルは、日本を戦争に導いた精神の体現者のような存在と私は考えていますが、そのような精神と野球のバットで戦わなくてはならないのです。

 その戦いは暗闇の部屋の中で行われます。誰かが、僕に向かって、ナイフを使ってきます。僕は2カ所ばかり切られました。それに対して、僕はバットで戦うのです。

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 「完璧なスイングだった。バットは相手の首のあたりを捉えた。骨の砕けるような嫌な音が聞こえた。三度目のスイングは頭に命中し、相手をはじき飛ばした。男は奇妙な短い声を上げて勢いよく床に倒れた。彼はそこに横たわって少し喉を鳴らしていたが、やがてそれも静まった。僕は目をつぶり、何も考えず、その音のあたりにとどめの一撃を加えた。そんなことをしたくなかった。でもしないわけにはいかなかった。憎しみからでもなく恐怖からでもなく、やるべきこととしてそれをやらなくてはならなかった」

 と村上春樹は書いています。

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 この場面を、誰との戦いか、と考えることが重要だと思います。

 日本を戦争に導いた精神のような存在である綿谷ノボルとの戦いと考えるのが、普通かもしれません。でも、いくら悪者でも、自分の妻の兄の頭を野球のバットで殴り殺さなくてもいいのではないか……? という意見の人もいます。

 そこで、私は、次のように考えています。

 これは暗闇の中の戦いです。つまり「僕」の心の闇の中の戦いなのです。どんな人間にも、自分の心のどこかに、日本を戦争に導いてしまうような部分を抱いています。そのように、日本を戦争に導いてしまうような自分の心の部分と戦って、そういう部分を徹底的に叩き潰さなくてはならないのです。そのようなことが書かれているのだと、私は考えています。

 <自分は、戦争の反対者で、自分の心の中には、日本を戦争に導くような部分はないのだ>という考えの人にお会いする時もありますが、そういう人も、ほんとうにそうなのか、誰もが自分の心の闇の世界のことを考え、自らと戦い続けなくてはいけないのだと、私は思っています。

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 最後に、『ねじまき鳥クロニクル』の野球のバットは、どんなものの代替物かということを考えてみたいと思います。満州国軍士官学校の中国人生徒の4人のうち3人は銃剣で殺され、4番バッターで、この脱走計画のリーダー格だった男が野球のバットで殴り殺されることからしても、この作品の「野球のバット」は「剣」の代わりでしょう。

 そして、物語の最後に「自分の心のどこかに、日本を戦争に導いてしまうような部分」という、最も戦うのが難しい相手に打ち勝つことができるバット(剣)とは、あのアーサー王が持っている名剣・エクスキャリバーのようなものではないかと考えています。

 エクスキャリバーは湖の精たちが住む異界で作られた不思議な力をもった名剣です。鋼鉄をも断ち切り、その鞘には負傷を治す力があり、持つ者を不死身にする剣です。

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 「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」の冒頭にある、父親がキャッチャーとなって、幼い村上春樹が野球のバットを構えて、バッターボックスに立つ写真の話から、ずいぶん遠くまで来てしまいました。でも、ここまで、考えさせる力が、村上春樹作品の中の「野球のバット」にはあるということだと思います。

 つまり「猫を棄てる―父親について語るときに僕の語ること」は、単に村上春樹が父親の日中戦争での従軍体験を記したものではなく、我々が戦争を繰り返さないためには、歴史の何を引き継ぎ、何と全力で戦わなくてはいけないのかということを書いているのだと思います。そのことを、幼い村上春樹が野球のバットを構えて、バッターボックスに立つ写真は示しているのではないかと、私は考えています。

 そして、闇の中で相手をはじき飛ばした野球のバットが、名剣エクスキャリバーであるならば、『騎士団長殺し』(2017年)の騎士団長の剣や騎士団長を殺す出刃包丁と繋がっていくところがあると思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

2019年6月27日

エンタメ記者コラム

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