首相就任後、初めて地元に戻った村山富市氏は多くの県民から出迎えを受けた=1994年12月、大分空港
101歳で旅立った村山富市氏は「トンちゃん」と呼ばれ、大分県民に親しまれた。村山政権の成果である「村山談話」が戦後政治史に刻まれる。戦後50年の節目に発表した。一方で自民党、新党さきがけと手を組んだ自社さ連立は“異形の政権”として語り継がれるかもしれない。
生前、しばしば口にしていたのは「巡り合わせの人生じゃ」だ。2019年10月、大分市内で講演した際も演題にこの文句を使っている。「いろんな人に出会い、いろんなことが起きたが、全ては巡り合わせ」と感慨深そうに述べた。
全くその通りだったのだろう。首相就任が最たるものである。「衆院で首相指名の投票が始まっても、まさか自分が選ばれるとは思わなかった」と回想している。
1993年に成立した非自民8党派による連立政権には当時の社会党も参加したが、政権運営を巡る各党間の思惑が交錯し混迷を深めた。社会党を除いた、非自民党派による統一会派結成の動きが唐突に浮上し、党委員長だった村山氏は決然として連立を離脱する。
温厚な人柄で知られていたが、珍しく怒りをあらわにした表情が忘れられない。それほどまでに村山氏と社会党を無視した政略だったのである。
ここからが巡り合わせのクライマックスとなる。政権復帰を狙う自民党は村山氏に“秋波”を送る。自社さ連立政権のトップになってくれというのだ。初めは「どこの国の話じゃ」と取り合わなかったが、最後は決断する。55年体制の中で不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だった社会党と自民党が席を同じくする政権の首領には、調整型の村山氏がふさわしかったのである。
非武装・中立を掲げていた社会党の基本政策転換も巡り合わせだろう。89年にベルリンの壁が崩壊し、戦後世界を形成していた東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)した。各国の社会主義政党が路線変更を余儀なくされる時期と首相就任が重なり合った。
国会で「安保体制の堅持、自衛隊合憲」を言明したのは悩み抜いた末の結論である。政権を担当する以上、基本政策転換は避けられないとの現実的な判断だった。繰り返されてきた党内論争に決着がついたが、社会党らしさを失い、党勢衰退を招く出発点にもなった。「首相を出したが、党がつぶれてしまう」と嘆いた古参党員の恨み節が耳に残る。
95年の「村山談話」も巡り合わせである。戦後50年という節目の首相が、結党以来、反戦平和を掲げてきた政党の党首だったのである。談話に至るまでには紆余(うよ)曲折があったが、断固たる意思で閣議決定にこぎ着けた。
当時、「先の戦争の反省とおわびがなければアジアの平和はない。自分の内閣で何としてでも決着したかった」と語っている。閣議決定は日本政府の公式見解である。今でも中国や韓国などの評価が高い。
大分での村山氏はどうだったのか。選挙に強く、衆院中選挙区時代の旧大分1区で自民党候補を押しのけ、たびたびトップ当選をしている。社会党を支援した労働組合の組織力もさることながら、飾らない気さくな人柄が保守層からも支持された。
政界引退後は大分市内の自宅で過ごしてきたが、県内外の会合に出席。国政選挙になると社民党候補の応援で全国を飛び回った。講演を頼まれれば快く引き受け、公民館での小さな集会にも顔を出して大分弁で政治を語った。「庶民派トンちゃん」が満杯の場面だった。
その人なつっこい笑顔を、もう見られなくなった。
(元編集局長・松尾和行)