戦後70年を前に、戦争の記憶を風化させず、その悲惨さ、平和の大切さを次世代へ伝えていこうと、2014年4月にスタート。他国での戦火、空襲、引き揚げ、学徒動員、銃後の守り…。県内にいる体験者の貴重な証言を本紙記者が聞き取り、「戦争とは何か」を学び、伝える長期企画。
※大分合同新聞 夕刊 2014(平成26)年4月1日~2020(令和2)年3月23日掲載
太平洋戦争の終戦から来年で70年。多くの犠牲を払った悲惨な体験をした人たちは減り、戦争を知らない世代が圧倒的に多くなった。記者が県内にいる体験者の貴重な証言を聞き取り、「戦争とは何か」を学び、伝える企画を始める。初回は旧ソ連によりシベリア...
<食事は小さな黒パン1個か、小さなジャガイモ3個> 丘の上の収容所に入ると、時計やペンなどの持ち物は全て没収され、服も脱がされ全裸になりました。そして戦場で日本軍から奪ったとみられる軍服やシャツが支給されました。着替えるとすぐに穴...
豊後水道に浮かび、マグロ漁でにぎわっていた小さな保戸島にも悲劇をもたらした。終戦直前の1945年7月25日、約500人が通う保戸島国民学校がアメリカの戦闘機グラマンに爆撃された。児童124人、教師2人、教師の子ども1人が亡くなった。田辺国...
<誰なのか分からない小さな遺体を背の順に並べた> 子どもたちを家に帰し、爆撃を受けてめちゃくちゃになった校舎に向かうと、直撃した1年生と5年生の教室は空洞になり、黒板や机は全部吹っ飛んでいました。爆風で服が破れて裸になり、首や手を...
故郷からはるか南の島は楽園ではなく地獄だった。終戦間際、赤道近くのニューギニア島まで従軍した田辺楢男さん(93)=竹田市久住町。戦況は現地入りした当初から旧日本軍に不利だったという。武器だけでなく医薬品、食糧の補給もままならない中で、悲惨...
<連合軍を相手に銃を手にした戦闘はないまま。実際の敵は……> サラワチ島に上陸したのは1944年5月でした。周辺の制空権などを手にした連合軍はサラワチ島を素通りする格好でフィリピン、さらに沖縄へと、日本本土に迫りました。ですから連...
太平洋戦争中、旧日本軍が中国で敢行した「大陸打通作戦」に参加した首藤忠夫さん(92)=臼杵市野津町=は、激戦の中で右腕を失った。作戦は多くの死傷者を出しながらも、いったんは計画通りに敵地の一部を占領。ところが戦局の悪化に伴い一転、命懸けで...
<激痛に苦しみながら、撃たれた右腕を切断。そして敗戦を知る> 右腕を撃たれた私の元へ、衛生兵の安藤棲夫さんが駆け寄って来ました。安藤さんは「がんばれよ」と声をかけながら包帯を巻き、モルヒネを打ってくれました。激痛は一時治まりました...
太平洋戦争時、旧日本軍は連合軍など敵国の製油所や飛行場を急襲するため、落下傘部隊を初めて編成した。佐藤巌さん(92)=九重町菅原=は陸軍の落下傘部隊の一員として、降下作戦や訓練に加わった。 <大学生に扮(ふん)して遊園地へ。遊具の...
<約300mメートル上空から降下。地上から敵軍の高射砲が飛んできた> 1942年1月20日、私たちは既に日本軍の制圧下にあったベトナムのカムラン湾に上陸しました。カンボジアのプノンペンを経て北部マレーのスンゲーバタニまで前進したと...
<グライダーで胴体着陸、米軍機に爆弾を投げる作戦が浮上> 1943年以降、旧日本軍の南方軍は米軍の猛反撃を受けて形勢が不利となり、私は44年8月、以前、降下訓練をしていた宮崎県川南の兵舎に帰還しました。このころから本土は、サイパン...
太平洋戦争の大勢が既に決していた1945年5月、満州電信電話に勤務していた安永重利さん(88)=別府市=は徴兵された。圧倒的な物量を誇るソ連軍と前線で戦い、死線をさまよった。捕虜生活、そしてシベリア抑留からの逃避行を振り返った。 ...
<日本が負けたことを知った時、悲しいとも、うれしいとも思わなかった> ソ連兵に捕まった私は牡丹江神社にある建物で縛られ、尋問を受けました。相手は憲兵のようで、日本語も流ちょうでした。私は兵隊でなく、電話局に勤務していると言い張りま...
太平洋戦争末期の1945年、沖縄本島や周辺の島々で展開された「沖縄戦」。国内唯一の地上戦の現場には工員養成所を出たばかりの、まだ10代の山下和明さん(86)=国東市国東町富来=がいた。目にしたのは敵味方の圧倒的な物量の差と、同年兵や住民の...
<足を打ち抜かれ、数カ月間、戦地を逃げ回る> 識名(しきな)で私は右足首の上を弾丸で打ち抜かれ、甲斐さんも負傷しました。陸軍の中隊本部で治療を受けましたが、私たちは元海軍。あまり相手にしてくれず、まもなく出ていきました。それから数...
<壕(ごう)の中に隠れているのを米兵に見つかり、素っ裸になって投降> 食べ終わった缶詰の缶を投げ捨てる音を聞かれたのでしょう。国場(こくば)に着いて30日が過ぎたころ、二十数人の米兵に、一緒に逃げ回っていた丸茂茂夫さんと共に壕の中...
20歳の時、中国北東部の満州で終戦(1945年)を迎えた金江保子さん(88)=大分市=はソ連軍の支配下に置かれ、厳しい寒さと食料不足による飢えをしのぐ毎日を送った。日本に帰ることができるかも分からない不安を抱えながら生き抜き、再び故郷の地...
<女性は身を守るため、兵隊服姿に丸刈り> 1945年の終戦時、私は満州国奉天(当時)にある南満陸軍兵器補給部隊(879部隊)に所属し、武器の在庫などを扱う部署の事務員でした。終戦後、ソ連軍が進駐してからは、引き渡す武器の整理などを...
悲惨な行軍、捕虜時代に強いられた緊張と飢え、失われる人間性……。満州から対旧ソ連戦の前線に送られ、シベリア抑留を体験した佐伯市本匠の矢野徳弥(とくみ)さん(89)は、戦争の恐怖と収容所の中で極限状況に置かれた人間の振る舞いの異常さを心に刻...
戦後69年目の8月15日を迎えた。...
<終戦の説明もないまま、ソ連軍から武装解除され捕虜に> ついに上官から終戦の事実も経緯についても説明がないまま、ソ連軍から武装解除をされ捕虜となりました。9月になると「ウラジオストク経由で日本に帰還させる」との話で、貨物列車に詰め...
<太陽を拝めない生活。休みも与えられず> 次第に体力が回復してきた私は、病室の掃除から始めて馬の世話、畑の水やりなど少しずつ軽い仕事ができるようになりました。 収容所生活から1年ほどたった1946年冬には、炭坑での作業に就くこ...
飢えや病で大勢の日本軍兵士が犠牲になったインパール作戦。従軍した挟間利武さん(94)=由布市挾間町北方=は「攻撃で命を落とすより、飢えでなくなった人が多かった。なぜあんな無謀な作戦を決行したのか」と、約70年前から続く疑問を胸に当時の様子...
<砲弾が尽き、退却。腰には自決するための手りゅう弾を下げて> 物資が不足する中、私たち約20人の分隊もインパール作戦に参加しました。林の中から大砲を構えますが、弾が不足していて、こちらは1日に3発程度しか撃てません。その上、1発撃...
日中戦争が起きた1937年、大分市緑が丘の野崎邦康さん(76)は母フジ子さん(当時22歳)の実家のある大分市岡川で生まれた。満州のチチハルで南満州鉄道に勤めていた父徳一さん(当時29歳)の下で暮らすため、母と海を渡った。だが、敗戦が色濃く...
<無法地帯と化した街で どん底の生活> 一行は安東市の日本人住宅街に分宿することになり、物資の不足と食料難で苦労しました。病弱な母、2人の妹との、どん底の生活が始まりました。 少年だった私は机の引き出しにひもを通して首に下げ...
日中戦争時代の1939年1月から終戦を経て46年3月まで、豊後大野市三重町の麻生誠一さん(95)は南方戦線の各地を転々とした。戦場で見たもの、体験したことはまさに“地獄絵図”だった。「運命がほんの少し違っていたら、私も死んでいたかもしれな...
<電信柱にくくりつけられ、手榴弾が口の中で爆発した兵士の死体> 1941年12月、私が所属する第48師団海第8943部隊本部はルソン島北部のゴンザーガに上陸しました。島を反時計回りに南へ南へと進むと、島中部のボソルビオが激戦地とな...
<もし代わりの人が現れなかったら9分9厘やられていた> 1943年3月にバタビア(現・ジャカルタ)の病院を出た後、シンガポール、サイゴン(現・ホーチミン市)、香港と病院を転々とし、シンガポールでは英国人医師に診てもらいました。 ...
南満州鉄道勤務の夫と結婚、1943年に満州へと渡った辛嶋和子さん(93)=九重町田野=は、終戦に伴う引き揚げの苦難を体験した一人だ。家族で暮らしていた朝鮮との境に位置する安東(あんとう)(現在の丹東市)は終戦直後、着の身着のまま逃げてきた...
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