文禄2(1593)年5月、豊後の戦国大名大友義統(よしむね)は、朝鮮出兵時の不戦功を理由に豊臣秀吉から改易(かいえき)(所領没収)されました。その翌年3月に、隣国肥後の大名加藤清正が、次の指示を出した古文書があります。 「豊州の内によ...
笑雲瑞訢(しょううんずいきん)は、15世紀に日本と中国の間を往来した遣明使節です。室町時代の臨済宗五山派の禅僧ですが、生没年、生誕地は不詳。しかしながら、宝徳度(ほうとくど)遣明船の1号船に乗り込んで京都―北京間を往復し、その際の見聞を日...
「天正十六年参宮帳」という史料があります。16世紀末、九州の豊後や肥後から伊勢神宮(三重県伊勢市)に参詣した人々を、神宮の御師(おんし)(参拝者の世話をする神職)が記録した名簿です。...
肥後国伊倉(熊本県玉名市)に、17世紀初頭の日本社会で活動した「唐人」(中国人)の痕跡が、唐人墓という形で残存しています。その代表例は、「肥後四位官郭公墓(しいかんかくこうぼ)」と呼ばれるもの。立碑形式の石製墓碑を墳丘の前に建てる、中国華...
薩摩半島の南東端に、港町として栄えた山川(鹿児島県指宿市)があります。ここは、向かい合う大隅半島の根占(ねじめ)(南大隅町)と共に、錦江湾(きんこうわん)(鹿児島湾)の入り口に位置する重要な港でした。 永禄4(1561)年付のインド副...
豊臣秀吉によって大友氏第22代の義統(よしむね)が改易(かいえき)された後の慶長6(1601)年、豊後府内には、徳川家臣の竹中重利(しげとし)が転封され、近世府内藩初代藩主となります。重利は、府内城の改修と、城下町や港を整備して現大分市中...
大村純忠(すみただ)は、天文2(1533)年に生まれ、天正15(87)年に没した、肥前国の戦国大名です。永禄6(63)年に、日本初のキリシタン大名となったことでも知られます。また、肥前の長崎は元来、小さな村だったものを、純忠によって元亀(...
豊後の戦国大名大友義鎮(よししげ)(宗麟)には、弟晴英(はるふさ)がいました。晴英は、天文21(1552)年3月、大内義隆が没した後の周防(すおう)大内家の家督を継ぎ、大内義長を名乗ります。山口に入った義長は、5カ月後の同年8月に、この地...
16世紀は、人類史上初めて「世界史」と呼べるような、地球的規模でのダイナミックな人間関係が生まれた世紀です。地球を逆回りしてアジアで出会ったイベリア半島両国(ポルトガルとスペイン)の活動により、ユーラシア東端にある日本の状況も、さまざまな...
コレジオ(collegio)は、キリスト教聖職者の養成と西欧文化の教授を目的として、イエズス会が設立した学校を意味するポルトガル語です。同じ目的で初等教育を施すセミナリオ(seminário)に対して、コレジオはより専門的内容を教える高等...
福岡県の「弥富文書」の中に、次の史料があります。...
ポルトガル・リスボンの科学学士院図書館蔵「日本書翰(しょかん)集」の中に、永禄4(1561)年、「El Rei de Conguxima(鹿児島の国王)」を称した戦国大名島津貴久(たかひさ)が、インド副王(ポルトガルがインドに設置した総督...
戦国時代の日向国目井(めい)(宮崎県日南市南郷町)に、竹下宗怡(そうい)(頼堅(よりかた))という人がいます。この人物は、現代ではとても考えられないような、国境を自由に越えて行き来するマージナルマン(境界人)でした。 宗怡はもともと、...
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