特攻隊員だった三浦秀逸さんが戦時中に家族へ送った手紙。計43通がアルバムに保管されていた
特攻隊員として戦闘機で出撃し、米軍に救出されて奇跡的に生き延びた元陸軍少尉、三浦秀逸(しゅういつ)さん(享年101)の戦時中の手紙が、佐伯市稲垣の自宅に残っていた。1943年10月に陸軍飛行学校へ入校してから、特攻出撃直前の45年4月までに記した計43通。受け取った家族がアルバムに保管していた。
三浦さんは朝鮮半島東北部の元山(ウォンサン)出身。19歳で特別操縦見習士官の1期生として熊本県の大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊に入り、その後、中国大陸や内地の基地を転々とした。
手紙の記述には、訓練を受ける緊張感や、次第に飛行機の操縦と軍隊生活にも慣れていったことのほか「軍装品代、百円ばかり送っていただけませんか」とのお願いも。冬の寒さが厳しい元山で暮らす家族への気遣いや、手紙と写真のやりとりを楽しみにしていることなどもつづられていた。
戦局の悪化に合わせるように、文面も次第に緊迫感が漂うものになった。44年12月5日の手紙には「取急ぎ申し上げます。本日」との文の後、8字ほどが検閲で黒塗りになっていた。かすかに見えるペン先の跡から、特攻隊員に任命されたことを意味する「大命を拝しました」と記していたとみられる。
最後の手紙は45年4月28日。両親に宛てて「只今より出発致します。長い間、色々と御世話になりました」としたためた。
翌29日、三浦さんの所属する部隊は知覧(鹿児島県)から特攻出撃した。三浦さんも戦闘機「屠龍(とりゅう)」に乗り込んだが、爆弾の装着に不具合があり中止。5月4日に改めて出撃した。沖縄近くの海で米軍機から銃撃を浴びて負傷し、海面に墜落して気絶。米軍の艦船に救助されて捕虜になり、終戦後に帰国した。
アルバムは父の耕平さんがまとめていたという。手紙が届いた日付をはがきや封筒に書き加えていた。三浦さんや家族が写った多数の写真もとじられていた。
三浦さんは昨年11月、天寿を全うした。長男の則和さん(71)は「特攻のことは長い間、誰にも話さなかった。少しずつ話すようになったのは晩年になってからでした」。
■知覧特攻平和会館「貴重な歴史の一次資料」
鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館には、三浦秀逸さんに関わる写真などが展示されている。
三浦さんが所属した第24振武隊が出撃直前に撮った集合写真には、仲間と肩を組む姿があった。隊員たちの寄せ書きには、天皇の盾となることを表す「御楯(みたて)」の二文字を記していた。
同館は、残された文章や身の回りの品々などを収集、研究して史実の伝承に取り組んでいる。
学芸員の八巻聡さんは、三浦さんが家族に送った手紙の存在について「特攻隊員本人がその当時に書いたものであり、歴史の一次資料としてすごく貴重だと思う」と高く評価する。
「親族の高齢化が進んだためか、近年は遺品などを寄贈したいという申し入れや相談が増えている。まだ多くの資料が埋もれている可能性もある」と話した。
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