東京一極集中のすさまじい奔流に抗しながら地域活性化、県勢の発展を求めて、ひたすら走り続けた6期・24年。大分県政史上最長、四半世紀に及んだ「平松時代」の幕が下りた。一村一品運動や高速交通体系整備、企業・大学誘致、地方分権、ローカル外交……。大分県はその姿を大きく変えた。激動の日々を平松守彦前知事の証言でつづる。
※大分合同新聞 朝刊1面・県政面 2003(平成15)年5月1日~7月15日掲載
東京一極集中のすさまじい奔流に抗しながら地域活性化、県勢の発展を求めて、ひたすら走り続けた6期・24年。大分県政史上最長、四半世紀に及んだ「平松時代」の幕が下りた。一村一品運動や高速交通体系整備、企業・大学誘致、地方分権、ローカル外交……...
< 引退表明からさかのぼること28年前。1974年、田中角栄首相が提唱する「日本列島改造論」の推進母体として国土庁が発足。県出身の西村英一氏が初代長官に就任した。平松氏は通産省から地方振興局審議官として出向した。その年の...
< 1975年7月21日、定例県議会が開会。冒頭で平松氏の副知事選任案が通った。立木勝知事の体調不安に加えて、エリート官僚の副知事就任。地元では「次期知事選にらみか」との観測がもっぱらだった。31日の県議会一般質問で野尻...
< 先妻を亡くして6年。公舎で独り暮らしをしていた平松副知事は1976年4月8日、再婚する。立木勝知事夫妻の媒酌で、大分カトリック教会で結婚式を挙げた。平松氏52歳、照子夫人43歳 > ◆待っていてく...
< 副知事から知事へ。平松氏は1979(昭和54)年春、最初の知事選に臨んだ。自民、民社、新自由クラブの3党推薦で、共産党の都留忠久氏を破り初当選した。得票は50万6590票、得票率78.2%の圧勝だった >
< 初当選後、平松県政はダイナミックに動き始めた。1979(昭和54)年11月26日、大分市内のホテルであった町村長との自治行政懇話会。知事は「市町村ごとに、それぞれ”顔”になるものをつくろう。特産品でも伝統芸能でもなん...
< 平松県政の2年目、企業誘致が次々に実を結び始める。1980(昭和55)年9月18日、ビデオテープのトップメーカーTDKが日田市進出を発表した。さらに12月にはキヤノンの安岐町進出も決まった > ◆...
< 平松知事は就任早々、大分空港周辺にハイテク産業を集積する「臨空工業都市構想」を打ち出した。1980(昭和55)年にキヤノン、81年秋にはソニーが進出を表明した > ◆ハイテクで浮揚を 臨空工業都市...
< 新産都2期計画の8号地埋め立て問題。立木県政から引き継がれた「負の遺産」を抱え込んでいた平松県政は、その清算を迫られていた。1980年7月の定例県議会で知事は「実現に向けて努力する」と、八号地の中断解除を表明した >...
< 1982(昭和57)年の半ばごろから、国政選挙をめぐる動きが慌ただしくなった。自民党の衛藤征士郎参議が6月に衆議院へのくら替えを表明した。一年後に参院選を控えて、県町村会や経済団体の一部が森田克巳県農政部長の担ぎ出し...
< 1982(昭和57)年9月に県農政部長を辞任した森田克巳氏と、県議会議長も務めた岩崎泰也県議。83年参院選へ向けた自民党内の公認候補争いが激しくなった。このころ、自民党県連内で権勢を誇っていたのが麻植敏秀幹事長。”麻...
< 1981(昭和56)年10月21日、「81大分フェア」を東京虎ノ門のホテルオークラで開いた。自治体が一流ホテルで開く初のイベント。政・財・官の各界、芸能人など約千人の招待客が集まった > ◆一流ホ...
< 1980(昭和55)年ごろから大分県産の麦焼酎が首都圏で売れ始め、全国的な焼酎ブームになっていく。平松知事のトップセールスがブームに火を付けた > ◆”全国制覇”第1号 焼酎といえば以前は安い...
< 1983(昭和58)年4月、平松知事は再選を果たした。選挙戦は前回(79年)同様、共産党の都留忠久氏との一騎打ち。自民、民社両党に加え公明党も推薦した。大分県の知事選では初の60万票台に乗せ、得票率85.1%という圧...
< 1984(昭和59)年3月24日、大分県が進める「県北国東テクノポリス計画」が通産省(当時)の承認を受けた。「新産都依存から脱却し、県の経済産業基盤に厚みができる」。県勢の発展に県民は大きな期待を寄せた >
< 1984(昭和59)年4月、平松知事はテクノポリスや高度情報化社会の頭脳拠点として、ソフトパーク構想を発表。同年10月31日、大分市東春日町の旧大分工業高校跡地で建設工事が始まった > ◆開発と養...
< 1981(昭和56)年11月1日、国内初の国際車いすマラソン大会が大分市で開かれた。13カ国・43人の外国人選手を含む117人の車いすランナーは午前11時、一斉に県庁前をスタート。ゴールの大分市営陸上競技場を目指す2...
< 大分国際車いすマラソンは1983(昭和58)年の第3回からフルマラソンになった。国際ストーク・マンデビル車椅子競技連盟公認大会のお墨付きも得た。参加者は回を重ねるごとに増え、今では30カ国から400人を超すランナーが...
< 1983(昭和58)年8月2日、平松知事は中国上海市の汪道涵市長の招きで訪中。人民政府や経済界の幹部を前に、「一村一品運動」をテーマに講演した > ◆中国は本気だった 汪市長は一村一品運動をQC(...
< 1987(昭和62)年4月12日、平松知事は知事選史上最高の61万票を獲得し三選を果たす。平松県政になって10年目の89年7月20日は、記念すべき日となった。それまで高速道路が1mもなかった大分県に、初めて高速道路が...
< 1988(昭63)年10月、大分空港に3千mの滑走路が完成した。完成を記念して11月18日に「大分県民の翼経済観光訪問団」がジャンボ機をチャーターしてオーストラリアを訪問した > ◆ジャンボ機飛ん...
< 1990(平成2)年2月8日、天皇の即位儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」に使うコメを作る都道府県を決める斎田点定(さいでんてんてい)の儀が皇居であり、悠紀田(ゆきでん)に秋田県、主基田(すきでん)に大分県が決まった ...
< 国の新年度予算編成が大詰めを迎える年末、霞が関にある県東京事務所に予算獲得と情報収集の前線基地となる予算対策本部が開設される。県政重点事業の実現を目指し、あの手この手の予算獲得作戦を展開した > ...
< 1991(平成3)年4月の知事選で平松知事は四選を果たした。得票率は過去最高の88%だったが、投票総数が前回より少なかったため、得票数も約7万票減った。選挙後、相次いで外国を訪問、ローカル外交を展開した。六月にフラン...
< 1992(平成四)年10月、湯布院町塚原で「第6回全国和牛能力共進会」が開かれた。5年に1度開催される”和牛のオリンピック”。県畜産試験場の「糸姫」が農林水産大臣賞を受賞するなど、県内出品牛全頭が上位入賞した >
< 1993(平成5)年7月の総選挙で自民党は大敗。宮沢内閣が総辞職した。8月、7党1派による連立内閣が誕生。日本新党代表の細川護煕氏が首相になった。55年の保守合同以来、約40年間続いた、自民党一党支配に終止符が打たれ...
< 4期目の1992(平成4)年1月6日、知事は大阪の国立循環器病センターに入院した。病名は左胸部大動脈瘤(りゅう)。10日に切除手術を受けた > ◆夜型生活にお別れ 政治家の病気は政治生命に直結...
< 1995(平成7)年4月の知事選で、平松知事は約55万7千票(得票率68.28%)を獲得し、県政史上最多の五選を果たした。その年の9月25日、立命館大学の別府市進出が決まった > ◆日本理解のため...
< 1995(平成7)年6月、サッポロビールは門司にある九州工場の移転を公表。25の自治体が名乗りを上げ、誘致合戦は過熱した > ◆ラブレター作戦で 候補地は日田市など4カ所に絞り込まれていた。誘...
< 1985(昭和60)年、知事は「豊の国文化創造元年」を宣言。日本文化デザイン会議の開催をきっかけに、文化行政にも力を入れる。87年9月には豊の国文化創造県民会議が発足した > ◆文化はぐくむ土壌 ...
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