『王道を、更新せよ。』―大人気だった温泉宿が、あえて成功を捨てて挑んだ4度の挫折と、職人の魂を宿す「あたらしい音」の物語

生まれ変わった、界 松本のロビー
長野県・浅間温泉の「界 松本」が、2026年8月4日に生まれ変わりました。
星野リゾートが運営する温泉旅館ブランド『界』の中でも人気が高く、多くのお客様に愛されてきたこの宿が、今回のリニューアルでめざしたことの1つは、「楽都」と呼ばれる松本の地に根付く、「音の文化」によるおもてなしでした。
ただ温泉に浸かって、おいしいご飯を食べる。もちろん、それだけでも十分に幸せな時間です。
でも、「もう少し旅の記憶に残るものがあったら」
界 松本が今回こだわったのは、その「もう少し」の部分。松本という街に息づく職人の文化を、スタッフが自ら深く掘り下げ、お客様に届けるかたちを何年もかけて模索しました。
数ある伝統や技術の中でも着目したのは、松本の「音」を支える楽器作りの職人たちでした。これは、スタッフが何度も失敗しながら、ギター職人と本気でぶつかり合い、やがて「音と温泉旅をかけ合わせた唯一の体験」にたどり着くまでの物語です。
「スタッフが介入したい」だけでは、お客様には届かない

話は2020年施設の改装計画が始まった時に遡ります。
「この改装をきっかけに、外部のプロの力に頼るだけでなく、私たちスタッフ自身の手で、もっと松本の奥深い地域文化にお客様を巻き込みたい。この街の魅力を、自分たちの言葉で伝えたい」
温泉旅館ブランド『界』には、その地域ならではの文化や伝統を体験できる、独自のアクティビティ『ご当地楽(ごとうちがく)』があります。
「スタッフ自らが地域を深掘りし、自らの言葉と手で直接伝える」ことこそが、このおもてなしの本質であり、界ブランドの特徴だと考えています。
当時、界 松本ではプロの演奏家によるロビーコンサートを毎晩開催していました。宿泊するお客様からも「ここに来るたびに楽しみにしています」とうれしい声をたくさんいただいていました。
でも、スタッフたちには少し引っかかることがありました。
「私たちはただコンサートに案内して、見守るだけ。お客様と一緒に松本の文化を体験しているだけで、自らの言葉と手で直接伝えられていないのではないか」
その引っかかりから始まった新しいご当地楽を企画するプロジェクト。担当したスタッフ達は意気揚々と自分たちの想いを形にするべく、国内外から高く評価されている信州のワインに目を付け新しい企画を考えました。
そして、最初の社内提案当日。
「今のロビーコンサートを一度やめて、NAGANO WINEの歴史をスタッフが解説しながら楽しむ『ワインテイスティングのアクティビティ』を新しいご当地楽にしましょう」
社内提案は、バサッと一蹴されました。
「今のコンサートはお客様の満足度も高い。それをわざわざ変える理由がどこにある? ただ『スタッフが介入したい』という自分たちの都合ではないか。地域文化の、おもてなしの本質が、そこには欠けている」

界 松本 総支配人の篠﨑隼介
総支配人の篠﨑隼介は、当時をこう振り返ります。
「当時は『スタッフがご当地楽に介入すること』自体が目的になっていて、全体のストーリーや地域の本質を蔑ろにした浅はかな提案になっていました。今思えば当然の却下ですが、当時は本当に悔しかったです」
想いだけでは、お客様に本当に喜んでもらえるものはつくれない。自分たちの視野の狭さに気づいたスタッフたちは一度立ち止まり、「松本にしかない、本当の地域文化とは何か」をゼロから考え直すことにしました。
職人さんに怒られて、気づいたこと

伺わせていただいたギター工房
「本当に、お客様に届けたい松本の文化とはなんだろう」
議論の末にたどり着いたのが、松本市を中心とした長野県が「日本一の生産量」を誇るギター製造の文化でした。豊かな森の木材と職人たちの手仕事が育んだ、松本ならではのものづくりの世界です。
「これだ!」と意気込んで地元のギター工房を訪ねたスタッフでしたが、最初の提案内容(「ギターのピックを手作りするクラフト体験」)を聞いた職人さんから、鋭い言葉が飛んできました。
「アコースティックギターは基本、指で弾くものだ。ピックなんて使わない。」
「協力はしたい気持ちはあるんだけど、ギターのことは何も分かっていない。そんな中途半端な内容になるのなら、協力はできないよ」
ギターへの敬意と知識が足りないと見透かされてしまいました。
当時プロジェクトの中心にいたスタッフの山口惟斗は、そのときの悔しさをこう振り返ります。
「工房の職人さんから『ギターの弦が何本あるか知ってるか?』と聞かれ、それすら即答できないような状態でした。自分たちの知識不足、リスペクトの無さを痛感し、恥ずかしかったです」
その後も、「それなら木琴のように木材を叩き比べる体験にしよう」
でも、「ギターを深掘りするのに、なぜ肝心のギターが聴けないんだ」と、社内外からの厳しいフィードバックが続き、気づけば提案がボツになること4回。あきらめても良さそうな気もします。
それでもスタッフたちは諦めませんでした。スタッフたちが前を向き続けられたのには理由があったからです。
工房を訪れたときに、職人さんがギター用の板をコンコンと叩いた瞬間の音。ギターをじゃらんと弾いた音の余韻。—木の種類によってまったく異なる、豊かな響き。思わず鳥肌が立つほど心を動かされたあの体験。
「あの感動を、お客様にも絶対に味わってほしい」
その気持ちが、スタッフたちの原動力でした。

新ご当地楽プロジェクトメンバーの山口惟人さん
メンバーの山口は自分でギターを購入して、ギター教室に通い始めました。
「職人さんと本気で、対等に熱量を持って語り合いたかったんです。そのためには、まず自分自身が楽器の楽しさと奥深さを知ることから始めなければいけないと思いました」
改装休館に伴い、山口が一時的に別の施設へ異動しても、この取り組みは終わりませんでした。総支配人の篠﨑隼介がバトンを引き継ぎ、工房へ足を運び続けたのです。
繰り返し工房を訪れ、職人さんのこだわりや、彼らが音に込める思いをじっくりと学んでいきました。
そうして長い時間をかけて積み重ねた界 松本のスタッフの真摯な姿勢に、職人さんはやがて心を開いてくれるようになっていきました。
スタッフと職人さんのバトンが生んだ「手触りのある音楽会」

新ご当地楽では、冒頭にスタッフから熱い解説が。
少しずつ職人さんとの信頼関係を築き、ギターへの理解も深めていったスタッフたちの度重なる提案で、ついに新しいご当地楽の扉が開きました。
新しいご当地楽は、プロの演奏をただ「聴く」コンサートとは、ひと味ちがいます。
スタッフが自ら楽器のチューニングを行い、これから奏でられる音の背景—素材の選び方や職人さんのこだわり—を、自分たちの言葉で話します。そして、宿泊者にも実際に木材の音の響きの違いを体感していただいたあと、目の前のプロの演奏家へとバトンを渡します。
音楽の裏側にある職人さんの手仕事や音の秘密に触れながら、プロの演奏を聴ける—『音から音楽へと変わる 』そんな「手触りのある音楽会」という唯一無二の体験が、ここに生まれました。
篠﨑はこの体験への手応えを、こう語ります。
「ただプロの演奏を鑑賞するだけでは得られない『知的好奇心』。音の背景やストーリーを私たちが前段としてお伝えすることで、その後のプロの演奏が何倍も深く、ゲストの心に響くようになります。これこそが、私たちが何年もかけて追い求めた『スタッフが介在する意味』です」
この新しいご当地楽の誕生は、館内の空間づくりにも広がっていきました。音楽を五感で楽しむ客室、ご当地部屋「GAKUの間」にはアナログレコードプレーヤーと高音質スピーカーを置き、吹き抜けの高い丸天井を持つロビーや新設のワインバーも、松本の音をじっくり味わえる場所として生まれ変わりました。

全室にアナログのレコードプレーヤが配され、音楽がつねに寄り添う
あたらしい温泉旅の、幕開け
2026年8月4日、界 松本が新しくなります。
大浴場で八種十三通りの豊かな湯浴みをゆったり堪能して、夕暮れのワインバーでNAGANO WINEをひとくち。そして夜は、職人さんの手仕事とスタッフの物語が詰まったギターの音色に、自分も少し参加しながら耳を傾ける。そんな時間が、ここでは待っています。温泉に浸かり、おいしい食事に癒やされる。そんな温泉旅館の「王道」の幸せはそのままに、自らの足と手で地域の奥深い文化を掘り起こし、お客様の記憶に深く刻むこと。それこそが、温泉旅館ブランド『界』の目指すおもてなしの真髄です。
「今のままでも十分にお客様は満足している」。そんな過去の成功をあえて手放し、何度も壁にぶつかりながらスタッフ全員でたどり着いた新しい「ご当地楽」。
『王道を、更新せよ。』
職人さんの魂とスタッフの情熱が響き合う、あたらしい温泉旅を、ぜひ界 松本でお確かめください。
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