インタビューに答える野村達雄さん=9月上旬、東京都港区六本木
公教育の日本語指導はかつて、どんな様子だったのだろうか。東京都の公立小で日本語を学び、世界的にヒットしたスマートフォンゲーム「ポケモンGO(ゴー)」の開発を指揮した野村達雄さん(40)=中国出身、シンガポール在住=と、恩師の阿部喜久枝さん(85)=東京都=を取材し、当時の一場面をたどった。
▼野村さんの一問一答は次の通り。
―中国での貧しい生活を抜け出そうと、中国残留邦人だった祖母の帰国を追いかける形で9歳の時、家族と日本に移り住んだ。当時の記憶は。
「中国での暮らしは連続テレビ小説『おしん』のようでした。だから来日後に公園の滑り台や卓上型の鉛筆削りを見つけては、『すげー』と驚いていました。捨てられている自転車やテレビを拾ったりもしました」
―日本語が全く分からない状態で、東京都練馬区立石神井東(しゃくじいひがし)小の3年生に編入した。どんな心境だったか。
「不安だった記憶はありません。お姉ちゃんも一緒に通ったし、クラスには中国から先に来日していた級友もいた。学校が配慮してくれたのかな」
―中国語のできる阿部喜久枝さんが日本語を教えてくれた。どんな先生だったか。
「優しくて、とても丁寧でした。発音一つ取っても『学校』と言うときの『が』と『私が』と言うときの『が』は違うとか。後者は鼻濁音ですよね」
―言葉が不自由な間、困ったことはあったか。
「実は半年で話せるようになり、言葉で苦労した思い出はあまりないんです。指導を受けたのも3年生の途中から4年生の途中まででした。それきりです」
「言葉より文化の違いの方がつらかった。今でも外国ルーツの子どもがお弁当の中身で恥ずかしい思いをしたりすることがあるようですね。日本は手が込んでいるので」
「阿部先生は日本語だけでなく、日本の文化も教えてくれました。先生の存在は大きな心の支えでした」
―学校での日本語指導がなかったら、学校生活や進学・就職はどうなっていたと思うか。
「結局は何とかやっていったかもしれないけれど、もっと苦労していたとは思います。だから、私の個人的経験を踏まえ、学校での日本語指導がなくても大丈夫―と言いたいのではありません。あれば習得の可能性を押し広げてくれる」
「来日した子どもは言葉も何も分からない世界に放り込まれるわけなので、日本語指導者がいること自体が安心感につながります。困ったときに駆け込むことができ、理解しようとしてくれる。孤立を防いでくれる意味でも大きいと思います」
―日本語指導が社会にとっても意義を持つとしたら、それはどんな点か。
「言葉は意思疎通に必須です。日本社会にとっても日本語を話せる人が1人でも多い方がいい」
「なぜなら、分かり合えないことは分断や対立につながるから。指導は、広い意味で社会全体の利益にもかなうはずです」
―公立校での日本語指導に対し「税金を使うな」と批判的な声もある。
「外国ルーツの子どもたちが今、ここにいる理由は十把ひとからげにくくれない。親の出稼ぎで連れてこられた子、中国残留邦人の帰国に伴って来日した次世代などさまざまです」
「彼らは必ずしも自ら望んで来るわけじゃない。だからこそ、日本を好きになってもらった方がいい」
「外国人も日本人同様、納税している。『外国人の問題』ではなく、同じ社会に生きる人を支え合う取り組みの一つとして、日本語指導を理解することはできないでしょうか」
【プロフィル】1986年4月生まれ、中国・黒竜江省出身。幼少期の名前は石磊(シーレイ)。祖母は、満蒙開拓団の一員として旧満州(現中国東北部)に渡った中国残留邦人。日本に戻った祖母に続いて95年秋に一家で来日し、在日中国人として東京都、長野県で育った。信州大工学部卒、東京工業大学大学院修士課程修了。大学4年時に日本国籍を取得した。グーグルなどを経て現在は独立して新サービスの研究・開発に取り組む。著書に「ど田舎うまれ、ポケモンGOをつくる」(小学館集英社プロダクション)。現在はシンガポールで暮らす。
▼野村さんを指導した阿部さんの話
阿部さんは現在、東京都杉並区で暮らし、野村さんとの交流を続ける。これまで子どもの日本語指導に17年間携わり、小中学生合わせて41人を教えてきた。野村さんはそんな中でも特別に優秀な1人だった。
石神井東小には非正規の日本語講師として赴いた。今も残る野村さんの指導記録は1995年12月21日に始まる。
「(お)なまえは? のむらたつおです」「くつ、かさ、つくえ、いす、すいか、(お)はし、みみ、は、えんぴつ」「トイレ いいですか」「いたい」
まずは校内で安心、安全に過ごしてもらおうと、必要性・緊急性の高い言葉、身の回りの言葉から教え始めた様子がうかがえる。
初回の所見もメモしていた。▽聞き取りで「ひ」と「し」、「ゆ」と「よ」を混同しがち▽文字を非常に丁寧に書き、少しでも気に入らないと書き直す▽大変、意欲的だ―。「聞き取れないと、もう一度言ってと伝えてきた。次から次に質問し、集中力も抜群でした」と懐かしむ。
阿部さんによると、当時、石神井東小近くの公営住宅には中国残留邦人の帰国者家族が集まり、同じような境遇の児童が学校に通った。野村さんは学習面で「優等生」として特別だったが、来日経緯から見れば複数のうちの1人だった。
指導は今の大分県でも見られる「取り出し」と呼ばれる方式だった。教室での通常授業中、別教室に呼び出して日本語を教える。2時限分(90分)が1セットで、96年7月まで計42回実施した。
「指導指針や到達目標もなーんにもなかった。テキストとワークブックだけ渡され、あとはお願いしますという感じでした」
指導の中では「学校にお菓子を持ってきてはいけない」「運動会という行事がある」といった文化の違いを教える時間も設けた。
野村さんはその後、大学院まで進んだ。世界的な企業に勤め、社会にインパクトを与えるゲームもつくった。ただ、阿部さんが関わってきた子どもたちの歩みはさまざまだ。中には言葉の壁にぶつかって「悪いこと」をする子もいた。今も気に懸けている。
「日本語指導は外国から来た子どもが、日本社会の一員になるための手助けです。今後、より充実すればいいなと思います」
▼取材後記
野村さんが「半年で日本語を習得できた」と話すのは事実だ。ただし、児童・生徒の背景や境遇、学習意欲や能力はさまざま。「子どもはあっという間に言葉を覚える」と一般化し、指導の意義を低く見積もることはできない。
むしろ考えたいのは、日本語指導を必要とする子どもたちが「なぜ今、ここにいるのか」という視点だ。野村さんの場合、中国残留邦人の歴史と切り離せない。阿部さんは帰国者たちを公立校に受け入れた当時、「戦争の被害者に手を差し伸べようとのモチベーションがあった」と証言する。
本連載に登場した県内の子どもたちも、本人の意志や選択を超えた社会や政治の大きな流れの中で来日した点で共通する。
ミャンマー出身の児童は母国でクーデターがなければ、中津市の小学校に来ただろうか。イラン出身の中学3年生は祖国の経済情勢が違えば、別府市の中学校で日本語学習と高校受験の両立に苦労することを避けられたかもしれない。
日本政府の出入国在留管理政策の下、県内で暮らす外国人は増えている。働き手として招かれた親に連れられ、やってきた子どもたちも多いとみられる。
交流サイト(SNS)では「外国人の教育に税金を使うな」との声も上がる。公教育での日本語指導はどうあるべきか―。学ぶ権利を保障する観点に加え、来日の背景にも丁寧に目を向けながら議論したい。(中谷悠人)