ゼロ戦の墜落現場から見つかった機体の部品や破片とみられる金属=1日、日田市鶴河内
太平洋戦争末期の1945年8月8日、日田市鶴河内の山中に交戦中のゼロ戦が墜落した。大分合同新聞と、戦争資料の収集に取り組む「豊の国宇佐市塾」は連携し、今月1日、落下地点を探索した。金属探知機を使って一帯を調べ、機体の部品や銃弾の薬きょうなどが見つかった。80年の時を経て出てきた空中戦の遺物。戦死したパイロット=当時(20)=の遺族へ届けることを検討している。
現地は大分、福岡両県境の近く。日米両軍の記録や地元住民の証言を基に割り出した。地権者の許可を得て調査した。
見つかった金属物は10点ほど。最も大きなT字型の部品は翼の昇降舵(だ)の作動部とみられ、長さ約30センチ。薬きょうは旧日本海軍機の機銃の弾に使っていた物と形状が同じで、墜落後に熱で破裂したと推定されるという。
この他、機体の外板やエンジンの破片とみられる物もあった。現在、専門家に詳しい鑑定を依頼している。
宇佐市塾によると、ゼロ戦に乗っていたのは長野県松本市出身の加藤正治・1等飛行兵曹(戦死後、上等飛行兵曹に特進)。福岡県の築城(ついき)飛行場から単機で出撃し、米軍機の編隊と交戦、撃墜された。
地元の坂本ミツコさん(87)は、ゴーッという音とともに低空飛行する戦闘機を見たという。「飛行機のどこの翼か分からないが、1枚ひらひらと別の場所に落ちていった。山から黒い煙が上がっていた」と振り返る。
亡くなった加藤さんが20歳だったと今回初めて知り「知覧(鹿児島県)に特攻隊の展示を見に行ったことを思い出した。自分にも息子がいる。こんな若い人が、と思った」と涙ぐんだ。
探索に参加した宮崎市の郷土戦史研究家、稲田哲也さん(53)は「墜落したゼロ戦の物であることは間違いない。見つかったのは(加藤さんが)俺のことを忘れるな、と言っているのではないか」と述べた。
出てきた部品は、地権者の同意が得られれば加藤さんの遺族を捜して届ける方針。