問い キャラ変はいけないこと?(ある中学2年生) わたしの高校時代のクラスメートに、バスケットボール県選抜の女子選手がいた。教室で過ごすいつもの彼女は笑い上戸のように、小さいことでも笑い転げている印象のある生徒だった。だが放課後の部活動では顔つきは一変し、真剣に黙々と練習する姿となる。そんな彼女を陰で気持ち悪いと言う人もいた。 日中の教室での彼女と放課後のバスケの練習に没頭する彼女の性格や態度、キャラクターが違うことに何の矛盾も感じない。学校というのが、他者が認識する、ただ一つのキャラクターだけしか許されない場所であるなら、とても息苦しいだろう。優等生キャラ、オタクキャラ、おふざけキャラ、陰気、陽気など。傾向の強弱はあっても、どれも一人の人の中に複数あるキャラクターだ。まだ見ぬ潜在性も含めて。 他者の認識する「私」のイメージにとらわれるのは、学校を生きる子どもだけではない。大人も先生、医師といった職業から、〇〇ちゃんのお母さん、若い、お年寄り、不登校、障がい者、アウトサイダー、独身者、既婚者、男、女、LGBTQ、弱者、勝ち組、負け組、日本人、外国人…。国家や社会は(そっと優しく)あなたを分類し、いつの間にか当人もその規定の中で自ら安住するようになる。哲学はこういうものに、疑問を持つ。 哲学対話は、冒頭にPネームを自分で考える時間がある。Pネームとは、フィロソフィーネームのことで、哲学対話内で人から呼ばれたい名前のこと。「普段呼ばれている名前ではなく、なるべく現実離れした名前がいいですよ」とわたしは声かけしている。なぜなら、普段自分を規定しているものから自由になった場所で、考え、発言してほしいからだ。お母さんとしての意見ではない、先生としての意見ではない、あなたの意見を聞きたい。でもこれが案外難しかったりする。わたしたちは肩書や役割で期待される何者かであることから離れ難く、縛られている。 また実際の自分の名前を手放せず、自由にPネームを考えることが難しい人もいる。「私」が抵抗する。変わりたくない自分がいる。子どもは自由自在なPネームを考え出す。「ちゅうしゃじょう」「ムカデいぬ」「舘ひろし」「きゃーきゃー」「ムニュムニュ」といったオノマトペまで。 哲学対話は変容を大事にする。Pネームがそうであるように、変容への仕掛けをたくさん作っている。例えば、途中で意見が変わってもいいことを冒頭にルールとして伝えている。最初に持っていた自分の意見に固執する討論とは違う。 ただ変容とは、対話において他者の意見や価値観に従うということではない。意見の相違があっても、何か少し、他者が分け入るスペースが自分の中にできることだ。そこはあたたかい。寛容と結びついている。知とあたたかいものが結びつく。かたくなな自分が柔らかくなるように、自分の重たい扉を少しでも開けて、他者を歓待してみる。このプロセスは何より、他者を通しての自分との和解だ。その時、すでに変容は起こっている。簡単ではないけれど。 チョウは幼虫からサナギに変わるとき、細胞組織を溶かし一回どろどろの液体になる。わたしたちの細胞もまた、それぞれの部位で、一定期間内に全て入れ替わる。なのにどうして同一性を求められるのだろう。また自分でも同一の枠に収まろうとするのか。 哲学史上有名な「テセウスの船」というアポリア(解けない難問)を知っているだろうか。テセウスの船とは、老朽化した船を構成している部品を全て新しく取り換えた場合、それでも最初の船と同一のものであると言えるかどうかという問題。正解はない。身近な人とぜひ考えてみてほしい。あなたがそう考えた理由も含めて語り合ってほしい。
しみず・けんいち 1976年、大分市生まれ。法政大文学部哲学科卒。「別府フリースクール うかりゆハウス」代表。2014年から哲学対話や哲学カフェの企画・運営を始めた。2020年からは月1回「こども哲学の時間」を開催。県内外の学校や地域で、哲学対話のファシリテーターを務めている。インスタグラムhttps://www.instagram.com/beppufreeschool_ukariyuhouse/