のどかな瀬戸内を眺めて育った人間にとって、海にはどこか穏やかで優しいイメージがある。
だが、このシルバーウイーク期間中に歩いた山陰海岸には、それまで抱いてきた印象を簡単に覆すぐらいの迫力と怖ろしさがあった。
山口県萩市の城下町を出立し、島根県を目指してひたすら東に進んだ。左手には日本海が横たわる。「白砂青松」という言葉が当てはまるような、穏やかな浜辺はほとんどなかった。水面のあちこちからゴツゴツした岩礁(がんしょう)が頭を現わし、そこに白波が打ち付けては激しいしぶきを上げていた。
瀬戸内サイドでは想像もできないが、海岸沿いの道路のガードレールには越波対策のコンクリート製の高い壁が各所に建てられていた。私が旅した時は幸い越波はなかったものの、波しぶきが道路のそばにまで飛び散り、ヒヤリとした。
大波が目の前で砕け散る。これにのみ込まれたらひとたまりもない。人間なんて、木っ端のようなものだ。自分の小ささに思い至る。
土地の人々の営みも、白波とともにあることを知る機会があった。
山口県阿武町の木与(きよ)という集落に差しかかった。家々を一望できる小高い岸壁の上に、小さな石碑があるのを見つけた。碑文の内容は、暴れる波とともに生きる土地の人々の苦労を物語っていた。
「明治四十五年建之」とある文章は漢字カナ交じり文で判読しづらいところもあったが、概要は以下となる。
「木与は耕作できる平らな土地も少なく、生計を立てるために我々(われわれ)は海に出るしかなかった。しかし、船を安心して停泊させられるような場所がない。激しい波のために転覆する船も多く、長く住民は暮らしに窮してきた。明治になり、お金を持ち寄り、補助も得て、埠頭(ふとう)を改築することになった。・・中略・・集落の暮らしに少しでもゆとりが生まれることを願う」
歩き旅の道中、数々の石碑に通りかかってきたが、ここまで切実で暮らしの窮状を赤裸々に明かす碑文には出合ったことがない。大半の石碑は、地域の偉人を称えたり誇れる歴史を刻んでいる。だが、この碑文にはただ民の苦しみと、難題を乗り越えるための歩みと、暮らしの向上へのささやかな願いだけがつづられている。当時の人々の真摯(しんし)な願いに触れ、神妙な気持ちを抱かずにいられなかった。
木与をすぎ、今度は宇田という集落に通りかかった。ここでは岩礁のそばに大きな松の木とお社(やしろ)があり、美しさにも引かれ参拝した。社の隣に、小さな仏の石像が鎮座していた。その表情は、表現しがたいほどに険しく見えた。胸から上の部分は穴ぼこだらけ。長年の雨風の威力だろうか。ものすごさを感じた。
これは一介の旅人の勝手な推測にすぎないが、石像の仏が険しい表情をしていらっしゃった(あるいは、そのように見えた)のには恐らく理由がある。それは、荒れる白波から集落の住民を守るためだ。暴れる自然の力ににらみをきかせていらっしゃるのだ。童子(どうじ)よりも小さな体は、形容しがたい迫力を放っていた。
日本海の白波には大いに衝撃を受けた。今後もしばらく山陰の旅を続けるつもりだが、また新たな発見にまみえることを心待ちにしている。
(旅師X)
~ここらで休足。また歩きます~