10年ほど前、夏の甲子園の組み合わせ抽選会を取材するため、大阪・中之島のフェスティバルホールを訪れたことがある。建て替えを経て真新しいホールには独特の高揚感が漂い、全国から集まった高校球児たちが緊張した面持ちで抽選番号を引いていた。
会場になった中之島、堂島川周辺、現在は高層ビルが立ち並ぶが、江戸時代には西日本諸藩の蔵屋敷や藩邸が軒を連ね、各地の産物と情報、人材が行き交う「天下の台所」の中枢だった。
中之島、堂島、天満周辺には、中津藩、岡藩、佐伯藩だけでなく、臼杵藩や日出藩、森藩など豊後各藩の蔵屋敷も点在していたとされる。今でいえば、大阪のど真ん中に「ミニ大分県」が存在していたようなものだ。
福沢諭吉が自伝「福翁自伝」で、若き日に適塾で学んでいた頃の逸話を記した難波橋も、この地域にある。宴会で騒ぐ屋形船に腹を立て、牛鍋屋から盗んだ皿を投げつけた―という、いかにも青春時代らしい話だ。
その近くにある現在の天満署周辺には、かつて佐伯藩の蔵屋敷があった。「佐伯の殿様浦で持つ」といわれたほど、藩財政は海産物による収入に支えられていたという。特にイワシを原料にした肥料「干鰯(ほしか)」は全国的に知られ、遠く九十九里浜方面でも利用されたとされる。
蔵屋敷は藩士の滞在施設であると同時に、年貢米や特産品を売りさばく“商社”のような役割も担っていた。瀬戸内海を通じて運ばれた豊後の産物は、この地で現金化され、各藩の財政を支えていた。
現在の朝日放送グループホールディングス周辺には中津藩邸、そしてフェスティバルホール一帯には岡藩邸があったと伝わる。岡藩士としても知られる南画家・田能村竹田は、隠居後に大阪や京都の文化人たちと幅広く交流したが、晩年をこの岡藩邸で過ごし1835年に生涯を閉じたという。
中津藩からは福沢諭吉、岡藩からは田能村竹田。中之島周辺は、近代日本を形作った思想や文化が交差した場所でもあった。
まもなく夏の高校野球大分大会が始まる。昨年まで、激戦を勝ち抜いた代表校は、大阪・フェスティバルホールで行われる全国選手権大会の組み合わせ抽選会に臨んでいた。今年から抽選会はオンライン開催となるが、かつて岡藩邸があったとされる場所で、大分の高校球児たちが甲子園への高揚感を味わってきた。
幕末には、岡藩をはじめ各藩の志士たちが、この地で日本の行く末を論じた。寺田屋事件へとつながる激動の時代、若き藩士たちが熱を帯びた議論を交わしていたのかもしれない。あれから170年余り。かつて藩士たちが未来の日本を語った場所で、高校球児たちが未来を懸けてくじを引いた。そう考えると、不思議な歴史のつながりを感じる。
大阪を訪れる機会があれば、USJや通天閣ももちろん楽しい。ただ、中之島周辺を歩きながら、かつてこの地に息づいていた「豊後」の歴史に思いを巡らせてみるのも悪くない。(衛藤知愛)