特攻の命令を受けた三浦秀逸さんらの第24振武隊は、1945年春から千葉、大阪、山口へと基地を転々とした。
この頃の手紙には、特攻への覚悟やサクラの花に寄せる思いと併せ、かつての家族での暮らしを懐かしむ記述もある。大阪では伯母の家を訪ね、おはぎを食べた感想を「お母様のお手製のおすし」と並んで今までで一番おいしかった、と書き送った。
4月28日、特攻の前線基地になっていた知覧飛行場(鹿児島県)で出撃の命令を受け、最後の手紙をつづった。翌29日に部隊は沖縄へ出撃するが、三浦さんの戦闘機は爆弾の着装に不具合があり、離陸を中止。5月4日に再出撃した。軍は同日、実家に通知を発送し、三浦さんが用意していた遺品の小包を駅で受け取るよう伝えた。
だが三浦さんは搭乗機が撃墜された後、海上で米軍の艦船に救助され、奇跡的に生きていた。捕虜となり、終戦後に帰国した。
晩年になるまで自身の戦争体験をほとんど語ることがなかった三浦さん。貴重な証言が書籍に収録されている。一部を引用する。
「何故負けたのか。国は、軍は、日本は神の国だから必ず勝つ、と言ったではないか。僕らはそれを信じ、戦い、そして敵艦に突入したのだ。(中略)怒りの相手は日本を負かしたアメリカではなく、負けた日本でした。無責任な戦闘を展開し、仲間を無残に殺した日本への怒りでした」(福島昂著「二度戦死した特攻兵 安部正也少尉」学芸みらい社)
三浦さんは戦友と共に死ねなかったことに自責の念を抱えながら戦後を生き抜いた。2024年11月、101歳の誕生日に天寿を全うした。晩年を過ごした佐伯市の自宅には子や孫たちが感謝を込めて、飛行服姿の三浦さんの写真を飾っている。
手紙全文【38】~【43】
(注)文面の旧仮名遣いは現代仮名遣いに、漢字の旧字体は新字体に改めた。一部の難読字は平仮名にした。その他は誤字を含めて原則そのままにした。文中の( )内の片仮名は本人が記した漢字のルビ。
◇は封筒またははがきに記された郵送元(所属部隊など)。同じ場所が続く場合は省略した。【 】内の数字は手紙の届いた順(一部判然としないものもある)。日付は消印や届いた日を判読できた場合に記した。封筒に「写真在中」や「書留」と記載されたものは〈 〉内に記した。
◇千葉県松戸市松戸郵便局気付東部一八四二六部隊小沢隊
【38】封書:4月13日着
前略
永らく御無沙汰致しました。
連日の○○で全く失礼致してしまいました。悪しからず。
本日、七日付けの御手紙拝見、皆元気の由、何よりと喜こんで居ります。聞けば御地の方は二十何年ぶりかの寒気とか、さぞ御つらかった事でしょう。寒い寒いあの朝鮮の寒さ、もう一度体験致したく思います。あのストーブの回りで、家中揃って楽しく語り合った昔の事、その側でお母様が編み物をなさって居られる姿、今でも時々、胸裏に浮びます。今年は朗坊の御仕事、其の他班の御仕事等で、色々と御忙しかった事でしょう。
今は桃の節句も何時の間にか過ぎて、全くこちらは春となりました。御地はまだ雪が残って居る様ですね。こちらはさすがは南、春眠暁を覚えずとか、全く春です。梅も今が満開でいい香りを放って居ます。梅は見ましたし、後は桜、死ぬまでにもう一度見度く思って居りますが、それ迄は!!……… 早く咲いて呉れないものかとそれのみ皆祈って居ります。
今や一大決戦の火蓋はきっておとされました。
空中勤務者たる私等の任務の如何なるものか、は、賢明なる御両親様には、もうお察しの事と存じます。先便にて最後と思って居りましたが、今又表記の隊に居り、必殺捨身の猛訓練に励んで居ります。
去る十八、十九日の好機は遂に逸し、この上なく残念に思って居ります。でも次機会こそはと、凄い張り切りぶりです。身体だけは相変らず頑健、今迄病気らしき病気もせず元気です。でも不思議に肥りません。かえって少しやせた様な気がします。やはり空中勤務のはげしさの為かとも思われます。眼だけ馬鹿に大きくなり人相が悪くなりました。おそらく今、御両親様と会いましたら、さぞおどろく事でしょう。
只今又、情報が入りました。では今日はこれにて筆を止めます。
ヤンキーよ 来らば来れ 大海の
鱶(フカ)のえじきと なるを 忘るな
秀逸
三月二十七日 夜
御両親様
◇大阪府中河内郡柏原中部第一〇八部隊気付小沢隊
【39】封書:4月25日着〈写真在中〉
前略
其の後は皆様御一同如何がですか、御伺い致します。
私此の度又変って表記の隊に来て居ります。
今日は東に、明日は西と全く私等の生活は渡り鳥です。今は大阪に来ておりますが、明日にでも又何処か他の処に行くかも知れません。吾々空中勤務者は、空のやくざ だとか云われますが、最近ではその念が深まって来た様な気が致します。
東京から大阪迄愛機を駆って参りましたが、途中箱根の難関あり、丁度この附近、雨が降って居り、全くいい気持ではありませんでした。余程引き返そうかとも思いましたが、任務が任務なれば一刻も速くとただそれのみ祈念致し、遂に突破致しました。
箱根を越して駿河湾に出た時は晴れて居り、蒲原、清水、静岡と一望して分り、又有名な三保の松原も空から眺めて来ました。燃料に余裕あらば蒲原の上にて二、三回旋回して皆様に挨拶でもして来ようかとも思いましたが、それも出来ず一気に大阪にかけつけました。一時間半の空中旅行も又変った快味のあるものです。でもこの日大阪に来て聞いたのですが箱根にて重爆一機遭難したとの事、天候不順の中を無理して来ました私が異常なくて全く神に感謝して居る次第です。
処で、こちらに来て早速お伺い致そうと思って居りましたが仲々にその機会がなくて行けませんでしたが、昨日午后から時間を貰いまして布施の伯母様の処に行って、一晩御厄介に相成り、今朝帰りました。丁度部隊から電車で三〇分位の処です。丁度半年前に御邪魔に上った切りにて、其の後は連日連夜の○○でお便りも出さずに失礼致して居りましたる矢先に飛び込んで行きましたので伯父、伯母様方も非常にびっくりされて居りました。色々と積る話に花を咲かせて、何だか家に帰ってお父様やお母様方と話して居る様な気さえして参り、夜の更くるも知らないで本当に楽しい愉快な一夜でありました。
伯母様はわざわざオハギ迄作って下さり、おいしくて私一人で遠慮なしに平らげてしまいました。今迄食べましたる中で家に居りましたる時お母様の御手製のおすしと昨晩のオハギこれが一番、何よりおいしかった様であります。又軍隊に入って着た事もない着物を着て、ゆっくりと語り合いました事等に、ほんとうに、昨晩は永久に私の脳裏から離れないものとなるでしょう。これからも暇がありましたら又御邪魔に上ろうと思って居ります。
申し遅れましたが伯父伯母様方一同皆元気、鈴代ちゃんに会いたかったのですが、蒲原の方に疎開して居るとかで会えませんでした。が相変らず元気で、又勉強もよく出来るそうで伯母様も非常に喜こんで居ります。
春もこちらは今がたけなわで 桜も七分通り咲き 飛行場から見える山肌に点々と白く浮き出て えも云われぬ風情です。八重咲きの一枝、愛機の座席にさして飛ぶ気持は何とも言えません。この生命、散りて咲かざむ若桜、真にこの桜花の如く清らけく美しく又華やかにゆく日を待って居ます。
のどかな春の日の午后、軟らかな陽射しを受けてこの便りを書いて居ります。
では長くなりますので、これにて。
先ずは近況御知らせ迄
秀逸
同封の写真昨日戴きましたるもの、お送り致します。
四月十日
◇山口県下関郵便局気付西部第一〇五部隊小沢隊
【40】封書:4月21日消印、5月14日着
前略
只今、表記の隊に参って居ります。
相変らず元気で居ります故御安心下さい。
桜も散り、葉桜となって参りました。でも、つつじが開き、一入、春の趣きを増して参りました。
今丁度昼の一時、全く眠くなる様な温かさ、御地は如何が? でも未だ肌寒い頃でしょうね。
季節の変り目とて御身体には充分気をつけて下さい。
今は何も言うこととてありません。暇の一時を手紙でまぎらわせながら書いて居ります。
同封の寄書き、隊長殿以下、皆で書いてもらったもの。それを見て偲んで下さい。
皆一騎当千の強者揃いですよ。ご期待下さい。
では御元気で。
秀逸
四月十七日
父上様
母上様
【41】はがき(両面に記載):4月26日消印、5月3日着
※裏面
前略
その后は相変らず頑健にて機到来を待って居ります故御安心下さい。家の方は相変らず御元気の事でしょうね。便りはなくとも信じて居ります。四月も終わりに近ずき、御地の寒波も、去り、住み心地もよくなった事でしょう。
朗生も外遊びで、目もはなされない頃でお母様もさぞお忙がしいでしょうね。充分お身体に気をつけて、お働きの程お願い致します。
ではこれにて。又後便。
※表面
常陸にて訓練を共にせし浜屋少尉が只今、大邱に行って居ります。何時も寝台は私の隣りでよく励みよく遊んだものであります。大刀校時代からもずっと一諸、無二の戦友です。
お暇がありましたら、行って会ってください。
【42】封書:4月28日消印、5月5日着
前略
相変らず元気旺盛、毎日張り切って居ります故 御安心下さい。
昨日は、当地に於きまして、最后の写真を撮りました。約一ケ月程かかるそうであります。どの様に写りました事やら、私は見られませんが―。
隊長殿(小沢中イ)と篠原少イと私と三人で写しましたのが一枚、それから私一人で、座ったのと、立ったのと、二枚、各三枚づつ、そのうちの一枚は、四ツ切りに引き伸してもらいました。これを遺影にして下さい。写真だけはなるべく多く撮っておこうと思いながらも、ついその機会にめぐまれなく、今になって残念でなりませんが、昨日(二十六日)その機会が与えられ、遺影を残す事が出来得て、満足です。
出陣の日、今か今かと待つもどかしさ、もう今日で十日目、全くじれったくなります。今日の午後あたりかも知れない様な気も致します。
隣りに居りました連中はついこの間出て、すばらしい戦果を挙げました。これを聞く度に皆、うれし泣きに泣き、同時に又、腹の真底から、ほとばしる様な何ものかを覚えます。電話がかかりました。
丁度、今命令が参りました。十二時出発です。
これでどうやら、皆様の御期待に沿う事が出来、又、諸先輩の後に続く事が出来得て、満足です。
必ずやりますよ、見て居て下さい。
男一度 たつからは 切って捨つべし何物も
衆寡もとより吾れに無し
強く、男々しい 胸の血を
たぎるひびきを聞くのみだ。
私の一番好きな歌、録音で聞いて下さいね。
色々と出発準備で忙しくなりました。ではこれにて。
秀逸
四月二十七日 午前
父上様
◇知覧にて
【43=写真⑧】封書:4月30日消印、5月14日着
只今より出発致します。
長い間色々と御世話になりました。御高恩を厚く感謝致します。
散り際のあざやかなのが武士の常、今は全く明鏡止水の境地です。
秀逸は最后の最後迄朗らかさを失わざる男です。
今でも何だか心がうきうきして、通常と変らざるものがあります。やれる処迄やり、後は神霊の御加護におまかせ致します。では、これにて、この世のお別れと致します。
最後に御両親様のご健斗をお祈り致します。
四月二十八日 秀逸
御両親様
※陸軍が実家に送った通知=写真⑨
◇山口県下関市小月局気付西部第九一二一部隊
〈公用〉5月13日着
西九一二一副第一五号
荷物発送ノ件通牒
昭和二十年五月四日 西部第九一二〇部隊長
三浦耕平殿
過般特攻隊員トシテ当地出発ノ陸軍少尉三浦秀逸ヨリ留守宅宛送付方依頼ノ荷物一個昨三日山陽線小月駅ヨリ小荷物トシ発送セシニ付同封ノ荷物引換證ニヨリ元山駅ニ於テ受領相成度
尚ホ此機会ニ御留守宅各位ニ対シ深甚ノ敬意ヲ表シ併セテ御健勝ノ程ヲ衷心ヨリ御祈リ申ス