1945年4月21日に宇佐市(当時の柳ケ浦町)であった空襲の体験談を、本紙連載企画「大分の空襲」(73年8~9月)から抜粋して再掲します。
防空監視哨(しょう)長清水忠直さん(日輪寺住職)は自宅から二キロ離れた妙見池畔の監視哨任務についていた。ここからは西に宇佐海軍航空隊を見下ろせる。
午前七時半、警報が空襲に変わり、かたずをのんでいると、御許山上空から侵入して来るB29の編隊。午前八時十分だった。高度二千、爆弾は飛行場やその周辺、駅館川などにアラレのように降っていく。庁舎、兵舎、格納庫がふっとび、さしもの広い航空隊も、真っ黒な煙で何も見えなくなった。
目を転ずると、柳ケ浦女学校もぐれんの炎、自宅の日輪寺も本堂から火柱を噴き上げる。「あれよ、あれよ」という間の出来ごとだった。
四日市農学校勤労奉仕隊の生徒東幸雄さんは隊門に入ろうとしていた。反射的に暗きょに飛び込んだが、瞬間、熱いものを足首に感じた。
一段落したので、近くの防空壕(ごう)まではい上がり、そのとびらをあけてギクリ。ハチの巣のような穴だらけの顔が倒れ込んできたのだ。航空隊用務員の矢野さんだ。そのすぐ前では、同僚の熊野御堂さんが、破れた腸を左右の手で押し込むように、死んでいる。奥の兵隊は白い作業服とむき出しの頭がい骨だけ残して、中身が吹っ飛んでいる。
逃げだしたかったが、足が立たない。ぬるっとした足の感覚に思わず手をやると、向こうずねに人さし指がヌーッと入る。白い骨にふれる激痛に、東さんはその場に気絶した―。
柳ケ浦町警防団長今戸悟さん、同副団長三好賢司さん、同本部付団員畑迫尚さん、同有永朝太さんの四人は、小学校前の田んぼのワラ小積みの陰に隠れていた。
敵機が来襲するまでは、小学校に隣接した柳ケ浦町役場の二階にある警防団本部に詰めていたのだが、「退避!」の声で駆けおりたものの、付近の防空壕、水路は先客の役場職員や教員、それに予科練習生で満員。やむなくワラ小積みに身をひそめたわけだ。
天津方面から高圧線沿いに低空でやってくる銀色の梯団(ていだん)。シュル、シュル、シュル、ドカン、ドカン。講堂が吹っ飛ぶ、奉安殿、校舎もやられる。
“長い”一瞬が過ぎ、今戸さんらがわれに返ると、そのかたわらで苦しげなうめき声。四人のうち三人は無事だったが、畑迫さんだけが、小学校に落ちた爆弾の破片でやられたのだ。
背中を血だらけにした畑迫さんは、それでもまだ意識はあった。戸板に運ばれ、対岸の城山下の横穴壕に運ばれた。しかし軍関係者の死傷者があまりにも多すぎて看護の手も回りかねる状態。夜になって畑迫さんの友人が見舞ったのが最後だった。
(原文を一部修正、省略しています)