【空襲の記憶】終戦前日まで攻撃続く 「県内死者564人」「来襲250回」と記録

空襲の場所(年表参照)

 大分合同新聞はきょう18日から「おおいた戦後80年 空襲の記憶」の企画を始めます。県内を目標にした組織的な空襲は1945年3月18日に始まり、終戦前日の8月14日まで各地が銃撃・爆撃に見舞われました。80年前に空襲があった同じ日付の紙面で、県内の被害を各種資料に基づいて掲載します。
 併せて、73年8~9月の本紙連載企画「大分の空襲」(75年に書籍化)から体験者の声を抜粋して再掲します。「大分の空襲を記録する会」が収集した貴重な証言です。戦時下の県民の体験を現在に伝えたいと考えています。

■本格的な空襲は45年3月に
 県内の初空襲は1944年6月。北九州へ向かう途中の米大型爆撃機B29が落とした爆弾で家族4人が亡くなった。
 本格的な空襲は45年3月に始まった。米軍が沖縄戦に集中した4月の前半と、梅雨時季や部隊の休養などが重なった6月ごろを除き、連日のように爆撃機や戦闘機が飛来して大小の攻撃を繰り返した。
 佐伯、大分、宇佐にあった海軍の航空基地が主な目標になった。大分市の海軍航空廠(しょう)(工場)も狙われ、4月には学徒動員で働いていた中学生18人を含む70人余りが犠牲になった。重要な輸送機関の鉄道は、終戦直前まで列車や駅、橋が攻撃を受けた。
 5月までは軍事関連施設が中心で、7月以降は軍・民を問わず攻撃対象になった。大分大空襲では深夜の街に焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、1万人以上が焼け出された。保戸島国民学校は木造の校舎が爆撃され、児童や教員ら127人が命を奪われた。
 被害の全容は定かでない。終戦から2カ月後の45年10月に当時の内務省がまとめた文書では、県内の死者は564人、重軽傷は910人。一方、63年発行の「大分県警察史」は▽死者485人▽負傷者718人▽米軍機の来襲約250回▽攻撃を受けた回数約85回―と記している。

■航空基地や駅・列車など標的
 県内が初めて目標になった3月18日の空襲では、佐伯、大分、宇佐の航空基地が攻撃を受け、各地の駅や列車も襲われた。軍と民間を合わせて数十人が死傷したとみられる。
 4月に迫った沖縄上陸作戦の支援を任務とする米軍の艦隊がこの日、九州の東に近づいていた。空母16隻から約1200機の艦載機が発進し、九州と四国西部の飛行場約30カ所と周辺を空襲した。日本側も特攻機を含む航空部隊が応戦した。
 宇佐海軍航空隊では、特攻兵器「桜花」を積んだ攻撃機の出撃準備中に2回目の空襲があった。少なくともこの日14人が死亡、出撃は中止された。佐伯、大分を含め、基地だけでなく周辺地域にも死傷者が出た。
 鉄道も攻撃目標となった。杵築駅の近くで列車が機銃掃射を浴び、20人余りが死傷。同じ日豊線の浅海井や幸崎などでも攻撃があった。
 空襲は翌19日も続いた。

■備えや消火活動を県民に義務化
 戦時中、県民は空襲への備えや消火活動を義務付けられた。
 家庭では夜間の灯火管制をはじめ、消火器具や防毒マスクの用意、防空壕(ごう)を造ることなどが求められた。警防団や隣保班を通じた指導のほか、注意点を記した家庭向けの冊子やチラシも作られた。
 県は1943年から毎月8日を「防空実践日」と定め、住民らが消火訓練などを繰り返した。
 45年には空襲の激化を受け、大分市や佐伯市が学童疎開を始めた。大分、別府、佐伯、中津などの各市街地では同年7月から、事前に民家などを撤去して空襲時の延焼を防ぐ強制疎開(建物疎開)を実施した。

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 この特集は戦中・戦後の本紙掲載記事のほか、主に次の文献を参考にした。
 ▽大分市警防課防空実施日誌(1945年)=国立国会図書館デジタルコレクション▽大分県警察史(63年、86年)▽大分の空襲(73年連載、75年出版)▽大分の歴史(79年)▽大分県の百年(86年)▽米軍資料 大分空襲の記録(99年)▽おおいたの戦争遺跡(2005年)▽各市町村誌・史▽工藤洋三氏(空襲・戦災を記録する会事務局長)の論考▽織田祐輔氏(豊の国宇佐市塾)の論考

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