バーナード・リーチ 『日本絵日記』(講談社学術文庫)
1961(昭和36)年1月14日付けの大分合同新聞に、日本民芸館長の柳宗悦が「小鹿田ガマへの懸念」と題して顔写真付きで寄稿した。その懸念とは何なのか。寄稿文から一部引用する。
「つい三十年前には、山間に隠れて車も通わぬ無名のこのカマ(窯)場が、いまや世界から客を集めて、大型のバスまで通うに至った。しかし皮肉なことに、かかる急変が漸次このカマに危機を招くに至ったのを感じる。カマを毒するさまざまな外敵が迫ってくるからである。実はその責任の一半はこのカマを紹介した私の肩にかかるので考えあぐむしだいである」
記事本文では、大分の竹工芸家で後に人間国宝になる生野祥雲斎が作家としての立場から、小鹿田焼の危機について陶工たちに向けてコメントしている。これも一部を引用する。
「数年前英国の陶芸家バーナード・リーチがこのカマ場を訪れて世間では新風を吹き込んだかのようにいわれたが私はかえってマイナス面が出ているのではないかと思う。いくら彼が世界的な人だとはいえ、彼は小鹿田に勉強にきたのであって、小鹿田には勉強にくるだけの、他のカマでは及びもつかぬ独特の味があるのだ。ところがリーチをそしゃくしないままにまね一時は味をこわしていた」
さらに生野は、もう一度古い小鹿田の味を学べ、全国の民芸を愛する人はそれを欲しているのだから、と主張する。民芸の提唱者である柳宗悦と柳の盟友で世界的陶芸家のバーナード・リーチを向こうに回して、問題提起をした当時の編集局に敬意を表したい。
リーチは1953年2月、19年ぶりに日本を訪れ、1年8カ月滞在した。リーチは神戸から別府行きの船に乗り込み、1954年4月4日小鹿田に到着する。27日まで滞在した日記が『日本旅日記』の第9章「九州小鹿田にて」にある。
リーチは、山の斜面から半ば腐食した鉄分の岩石を粗切りし、それを搗(つ)き砕く原始的な木製の唐臼に驚き、朝ベッドでは陶土をつく杵の規則正しい音と水の流れる音と、竹藪(たけやぶ)からの鶯(うぐいす)の優しい低い声を聞く。小鹿田の陶工たちと共に仕事をして、日本全土で把手(とって)のついた水差を古くから作っているのはここだけだとも指摘した。坂本老の家で寝泊まりし、日中は作陶、夜は陶工だけでなく村の人とも飯を食い酒を飲む。日記にはリーチの小鹿田焼とこの村への愛情がにじみ出ているし、小鹿田の人々にとってもリーチと過ごした日々はかけがえのないものだったろうと思う。それから数年後、新聞に「小鹿田ガマの懸念」が載ることになるとは誰が想像しただろうか。
今年の盆に小鹿田を訪ねた。2年ぶりに耳にする唐臼と水のしぶく音は実に心地良く、家に何枚もあるのにまたとびカンナの皿を求めた。自ら65年前の記事を紹介しておいて言うのもなんだけど、誤解しないでもらいたいのは、小鹿田焼陶芸館の展示を見ても、民芸の本を読んでも、今も柳宗悦とバーナード・リーチは小鹿田にとって恩人であり仲間であること。そしてリーチの『日本絵日記』(柳宗悦訳)は、当時の日本人の暮らしと陶芸ほかの美術に触れた、詩情あふれる日記文学であることはきちんとお伝えしておきたい。
(児玉真路)