【Gateインパクト】原爆で妻子4人を失った男性、日記に残した「俳句」の意味は― 大分市で孫が語る

祖父と母の被爆証言を語り継ぐ平田周さん=8月1日、大分市

 再び被爆者を生み出さないために―。8月1日に大分市で開かれた「ノーモアヒバクシャ 大分の集い」。核兵器の廃絶を目指す大分県原爆被害者団体協議会(県被団協)が主催した。長崎県長与町の平田周(しゅう)さん(68)が登壇し、長崎原爆で被爆した家族の体験を来場者に伝えた。

 妻子4人を原爆に奪われた平田さんの祖父は、当時記していた日記に、亡くなった子の姿や火葬のありさまを俳句にして残していた。その思いとは―。平田さんの話を紹介する。


 ―平田周さんの祖父・松尾敦之さんと母・みち子さん(敦之さんの長女)は1945年8月9日、長崎市で被爆した。

 「祖父・敦之は若い頃から俳句を勉強していました。自由律俳句といって、字数に制限がなく、季語も必ずしも必要とはされていません。祖父が詠んだ「すべなし 地に置けば 子にむらがる蝿」という俳句の意味は、これから話を聞いていただければ分かると思います」
 「祖父はたくさんの日記を残していました。昭和20年1月23日、原子爆弾が落とされた年の日記です」

〈日記〉
 お昼ご飯を食べに家に戻ると、妻の出産が始まり、午後3時無事に産まれる。僕は2階の部屋で3歳の次男と遊んでいた。赤ちゃんの産声が聞こえて、ほっと安心した。次の日は僕が仕事を休み、その次は長女が休んでくれることになった。とにかく実にありがたい気持ちだ。空襲もなく、妻も子供も無事であったことを、何よりうれしくてたまらない。

 「戦争中で何かと不自由な暮らしだったけれど、4人の子どもたちに囲まれた愛情いっぱいの幸せな生活に満足していた様子が分かります」

 ―8月9日。長崎市松山町上空で原子爆弾がさく裂した。その時、敦之さんは爆心地から南へ3キロほど離れた職場にいた。
 
〈日記〉
 突然、パーンと黄色い光が世界を包むと同時に、熱気がふわっと入ってきて、ドカーンと爆弾の音。爆風は家全体を揺らし、窓ガラスの散乱すること。机の下に入らねば危険と思い入って様子をうかがう。

 「当時15歳の学生だった母・みち子は爆弾を作る工場で働かされていて、部品を整理している時に被爆しました。母は当時のことを手記につづっていました」

〈手記〉
 ものすごい光に目がくらみ、私は真っ黄色の光に包まれ、体が溶けていくのを感じました。必死に工場から脱出した時に初めて、何か指先にぶら下がっているのに気が付きました。それは肘からべろりとむけて垂れ下がっている自分の腕の皮でした。ぞっとしましたが、力任せに皮を引きちぎって捨てました。

 ―敦之さんは妻やほかの3人の子どもたちを捜すために自宅へ向かい、大きく吹き飛ばされた自宅を目にする。

〈日記〉
 ただ呆然とする。足の踏み場もないほど、乱暴に散乱している柱や梁(はり)を踏み越えて家に近づく。妻や子の名を呼んでみる。何の答えもない。岩に掘ってあった防空壕の中に入り込み、奥のほうに手をやると、冷たい足らしきものに触れた。誰だと聞くと、長男の声がする。その時の嬉しさは。お前は無事だったか?お母さんたちはどうした?と尋ねた。探して回ったが、見つからないのでここに入って寝ていると言った。

 ―翌8月10日。敦之さんは近所の人から妻の居場所を聞き、会いに向かった。

〈日記〉
 妻は顔面、両腕、足にやけどをしている。昨日、家を出て、近所のうちへ行く途中でやられ、そのまま草の上に倒れたままで、火災の熱気や暑さで、そこから動き出す力がなく、そこで夜を明かしたのだ。3歳の次男は大した傷もないようだったが、まもなく脳に障害を起こし、手に握っていた木の枝をしゃぶって、サトウキビばい、うまかとばいと言っていたそうである。夕方、容態が悪化して暴れて死んだという。
 7カ月の末の娘は額に穴が開いていたが、割合機嫌よく乳を飲んでいたが、今朝方息を引き取った。今にも倒れそうな妻を助けて、防空壕の中へ入れ、2人を庭先に寝せて布をかぶせておく。きょうだい2人を地べたに寝せたまま放っておくより仕方ない悲しさ。
 すべなし 地に置けば 子にむらがる蝿

 ―その後、長男の症状も悪化し、亡くなった。幸せな暮らしが全て壊されてしまった。

〈日記〉
 昨日どうにか生き残ったのだから死なせたくなかった。長男の死は私の心に大きな痛手である。生まれてから経験したことがないほどの悲しい気持ちでいっぱいである。

 「8月11日に敦之は3人の子どもを自ら火葬し、翌日、骨を拾いました。7カ月の赤ちゃんの骨はとてもか細く、花びらのようだったそうです」

〈日記〉
 あわれ 7カ月のいのちの はなびらのような骨かな

 ―8月13日。妻の容体が良くなく、両親たちに会わせるために実家に向かった。14日は一度自宅へ向かい、実家に戻ると妻の容態が悪化していた。

〈日記〉
 玄関に入るなり、なんしたっとね、具合が悪いかとよと言われ、走ってそばへ行った。横に寝せると、睡眠薬を与えていたのが効いてきたのか、静かな寝息さえ聞こえてきた。あまり静かになったので気になり、時々様子を伺ってみる。何度も寝息を伺っているうちに、ついに息をしていないことが分かった。18歳の時、嫁いできて、18年連れそった妻。涙が次から次へとあふれてくる。

 ―8月15日。妻と3人の子供を失った。4枚の死亡証明書をもらい、近くの学校の校庭で妻を火葬した。そこで終戦を知る。

〈日記〉
 校庭の隅の方で火葬をすることにする。炎天の下、延々と燃え盛っていく。その時、ラジオで君が代が聞こえた。しかし雑音でなんと言っているのかさっぱりわからない。ちょうど校門を入ってきた人がいて、何の放送が尋ねると、日本の降伏だという。耳を疑い、そんなことがあるものかと思ったが、間違いないという。涙が止めどなく流れ、今になって降伏とは何事か。妻は子は一体何のために死んだのか。ああ、わずか5日か6日の違いで、彼らは犬死にではないか。なぜ降伏するならもう少し早くしないか。日本降伏は事実であった。

 「ようやく長い戦争が終わったまさにその時に、自分の妻には火が付いて天に向かって燃え上がっていました」

〈日記〉 
 降伏のみことのり 妻をやく火 いまぞ熾(さか)りつ

 「戦争は終わったけれど、両腕と顔に大きなやけどを負っていた母・みち子は、その後も生死の境を何度もさまよい、それを祖父が看病して私たちに命をつないでくれました。戦争が終わって、母は皮膚がなくなっていた腕に皮膚を移植する手術を受けて、大きなケロイドが残りましたが、生き延びることができました」
 「しかし血液のデータに異常があるなどの放射線障害、原爆症に悩まされて、生涯、大量の薬を飲み続けなくてはなりませんでした。生き延びた人たちにも大変な生活が待っていました」

 ―祖父と母の被爆体験を語り継いでいる平田さん。一人一人が考えること、学ぶことが大切だと来場者に呼びかけた。

 「戦争の話を伝えることで、原子爆弾、核兵器がなくなるよう、世界中が平和になるよう、訴え続けていかなければならないと思います。二度と核兵器が使えないようにするためには、当時の出来事を一人でも多くの人たちが知る必要があると思います」
 「被爆された人たちの平均年齢は86歳を超えて、自らお話しするのは年々困難になってきています。被爆した方の次の世代の私たちが次の世代、さらにその次の世代へとバトンリレーのように伝えていくことで、戦争や核兵器のない世界が実現すると信じています」

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