日本やアメリカのマット界を中心に活躍したアメリカのプロレスラー、ドリー・ファンク・ジュニアさんが4日、死去した。85歳だった。偉大なレスラーがまた一人いなくなってしまったことは残念でならない(以下はドリーと表記。登場するレスラーは敬称略)
日本の「プロレス文化」が躍進期に移行しようとしていた1970年代、多くのファンが、試合会場やテレビ画面越しに、ドリーが展開するテクニカルなアメリカンプロレスの醍醐味(だいごみ)に触れた。そして、日本マット界にいなくてはならない存在となった。
アメリカ・テキサス州を拠点としていたドリーは「グレート・テキサン」(偉大なるテキサス人)と呼ばれていた。実弟テリー・ファンク(故人)との兄弟タッグ「ザ・ファンクス」の、やられてもやられても立ち上がり、執念で勝利をもぎ取る姿に日本中が熱狂した。やんちゃなテリーをサポートし、テリーが相手チームからとどめを刺されそうになると、身をていして守るようなファイティングスピリットだった。テリーは「暴れ者」、ドリーは「冷静な軍師」というイメージで、2人が融合し一つになった最高のチームなのだ。
ザ・ファンクスと同様の役割構成のタッグを見ると、どれも秀逸さが光っており、完成度が高いと感じる。例えば「タイガー・ジェット・シンと上田馬之助」、「スタン・ハンセンとテッド・デビアス」「長州力とアニマル浜口」などがそうだ。
思うに、日本マット界に「維新軍」「道場・檄(げき)」「決起軍」「カルガリー・ハリケーンズ」「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」など、数え切れないほどのユニット(チーム)が誕生し、いわゆる「軍団抗争」が興行の核となっていったのは、そもそもタッグチームの争いが源流だと言って良い。「タッグ」の魅力を存分に知らしめたドリーの功績は大きいと感じる。
ドリーの訃報を聞いたファンの大半は、即座に頭の中で入場テーマ曲「スピニング・トーホールド」が流れたに違いない。この原稿を書いているまさに今、私の頭の中で曲がエンドレスで流れている。スピニング・トーホールドはドリーとテリーの必殺技の名前なのだ。
「週刊ゴング増刊プロレス観戦パーフェクトガイド」(日本スポーツ出版社・1992年)によると、スピニング・トーホールドは、2人の父が開発し、ドリーが完成させた。自分の左足を、倒れた相手の足と交差させ、相手の右足をひねりながら、自らの左足を軸にして体を何度も回転させてギブアップを奪う技だ。日本名は「回転足首固め」という。ドリーは1969年に、この技で「荒法師」ジン・キニスキーを破り、当時、世界最高権威と言われたNWA世界ヘビー級王者となった。シングルプレーヤーとしての実力も世界に知らしめた。
ドリーは全日本プロレス(ジャイアント馬場が旗揚げした団体)を支えたトップレスラーだ。何度も何度も大分に来県し、大分市の県立荷揚町体育館、別府市の別府市営温泉プールなどで試合に出場している。
たしか大分合同新聞にはたびたび割引券が折り込まれていたと記憶している。テッド・デビアスとのシングル戦といった、ファン涙ものの好カードが組まれたこともある。
以前、神奈川県や東京都に居住していた私は、全日本プロレスの興行があるたびに、大分市戸次出身で埼玉県在住のフレアー衛藤さんと後楽園ホールや日本武道館に観戦に出かけていた。スタン・ハンセンらパワーファイターにたたきのめされたり、アブドーラ・ザ・ブッチャーなどの凶悪レスラーに血祭りに上げられたりしても、簡単にはくたばらない。マット界の中でも屈指のタフさに感心したものだ。
私がドリーの試合を会場で生で見たのは2016年が最後だった。東京都のホール「新宿FACE」で開催された「東京愚連隊(ぐれんたい)」という団体の興行にドリーが出場したため、津久見市出身で東京都在住のTさんと、まさしくドリーを見るために行ったのだ。この日、新宿FACEにやってきた観客のほとんどが同じ目的だったに違いない。
ドリーは当時75歳で、試合に出ること自体に驚いた。花道を歩く姿や、介助されながらリングへの階段を上る様子に、かなりの衰えと痛々しさを感じたのを覚えている。
試合は8人タッグマッチ(4人対4人の対戦)。ドリーがリングインしたときは、中央部にじっと立ち、対戦チームのレスラーがドリーの周りを派手に動き回るといった展開。あまり動けないドリーだったが、最後は相手チームの選手にスピニング・トーホールドを決めて勝利した。私とTさんは「プロレスってファンタジーだな」と、あらためて奥深さを感じたのを思い出す。たとえ衰えたドリーであっても、見ておいて良かったとつくづく思う。
ドリーの試合はユーチューブなどで探せば見ることができる。あのシブいファイトを、ぜひ多くの方々に見てほしいと願うところだ。フォーエバー。安らかに。(下川宏樹)