「こんなところに大分が!?」―。東京支社に勤務する記者2人が、都内や全国の出張先で大分との関わりのあるスポットを探し歩く企画です。
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10月下旬、杜(もり)の都・仙台市。東北大での取材を終え、キャンパスに直結する仙台市地下鉄東西線「青葉山駅」のホームに降りようとすると、大分でもなじみ深いメロディーが流れてきた。「荒城の月」だ。「そうか。仙台は作詞した土井晩翠の出身地だ」。帰宅の予定を急きょ変更し、ゆかりの地を巡ることにした。
土井晩翠は1871年に仙台市で生まれた。幼少期から漢学に親しみ、東京帝大に進んだ後に多くの詩を発表。仙台では第二高等学校(現・東北大)の教授も務め、1950年には詩人として初めて文化勲章を受けている。
「荒城の月」は中学校用の教科書「中学唱歌」(1901年)に掲載された。土井晩翠が作詞し、少年時代を竹田市で過ごした滝廉太郎の曲が公募で選ばれた。2人の縁から、仙台市と竹田市は音楽姉妹都市として交流が続く。
記者がまず訪れたのは「仙台城跡」(青葉区川内)。土井晩翠にとっての「荒城」のモデルの一つで、別名・青葉城としても知られる。東北大から歩いて30分ほど。多くの観光客でにぎわい、全く荒れているような印象は受けなかった。
仙台のシンボルとしてよく見る伊達政宗公騎馬像のすぐ近くに、土井晩翠の胸像と「荒城の月」の詩碑があった。30分に1度、スピーカーからは曲が流れる仕組みもあり、演奏時には見物客が集まってきた。中には歌を口ずさむ人もおり、曲の知名度の高さをあらためて知ることができた。
次に訪れたのは晩年の住居である「晩翠草堂」(青葉区大町)。ビルが立ち並ぶ市街地の一角に、時代が止まったかのようにたたずんでいる。戦災で住居を失った土井晩翠のために教え子ら市民有志が建て、1952年に亡くなるまでの数年間を過ごしたという。現在は遺品などが展示され、功績を学べる文化施設となっている。
案内員の瓜生茂樹さん(78)に大分の記者であることを告げると、快く迎え入れてくれた。土井晩翠がロンドンで病気の滝廉太郎を見舞った最初で最後となる2人の出会いや、竹田市で開かれた滝廉太郎の追悼会を訪れていたというエピソードを情感たっぷりに語ってくれた。
滝廉太郎の死を悲しみ、したためたとみられる短冊の複製も展示されていた。竹田市が寄贈したもので、短冊を入手した首藤勝次元市長の解説文も添えられていた。
作詞した校歌のリストもあり、「大分高等商業学校」(現・大分大経済学部)、「高田中学校」(現・高田高)、「別府市立中学校」(現・別府鶴見丘高)の名前も確認できた。
その他、「晩翠通」という大きな市道があった。至る所に関連する石碑もあるらしい。
「荒城の月」を聴くと岡城(竹田市)や滝廉太郎の像がある遊歩公園(大分市)を連想していたが、これからは地元の「レジェンド」への愛にあふれた仙台の街も思い浮かんできそうだ。(萱嶋悠)