取材で「支援者は、代わりにしゃべる人ではありません」と聞いた。
少し意外だった。言葉に困っている人を助けるなら、こちらが補ってあげる方が親切なのではないか。そう思っていたからだ。
話してくれたのは、県言語聴覚士協会会長で言語聴覚士の中村太一さん。失語症の人たちの支援に長く関わっている。
そもそも私は、失語症を知っているつもりでいた。ドラマや映画で、強いショックを受けて突然言葉が出なくなる―。そんなイメージがどこかにあった。
実際には、脳梗塞や脳出血、事故などによる脳の損傷で起こる言語障害だという。「話せない」だけではない。話す、聞く、読む、書くといった言葉に関わる機能のいずれかに支障が出る。話すのは難しくても、相手の言葉は理解できるなど、症状にも個人差がある。
考えてみれば、私たちは「伝えたいことを言葉にする」ことを、あまりに当たり前にやっている。
何が食べたい。どこへ行きたい。ここが痛い。これに困っている。助けてほしい―。
失語症になると、その「助けてほしいこと」を、助けてほしいと伝えることさえ難しくなる場合があるという。
身体のまひなどは外から気付かれやすい。一方、コミュニケーションの障害は見えにくい。本人の希望が十分に伝わらず、周囲が良かれと思って話を進めれば、自分の生活なのに「流されるまま」になってしまうこともある。
そんな人が市役所で手続きをしたり、通院や買い物に出かけたりする際、本人と相手とのやりとりを手助けするのが「失語症者向け意思疎通支援者」だ。
ただし、本人に代わって何でも話すわけではない。
大切なのは「待つ」ことだという。
すぐに答えを代わりに言わない。相手が言葉を探している間、急かさずに待つ。必要なら選択肢を示したり、伝わりやすい形に整えたりする。それでも、最後に意思を示すのは本人だ。
助けるとは、先回りすることではないらしい。
考えてみれば、私たちは沈黙があまり得意ではない。会話が途切れると何か言わなければと思うし、相手が迷っていれば、ついこちらから答えを出してしまう。
それは親切のつもりかもしれない。
でも、相手が自分で言葉を探している途中なら、その親切が言葉を奪ってしまうこともある。
もう一つ、中村さんの話で印象に残ったことがある。「失語症の人を街であまり見かけない」のは、当事者が少ないからとは限らないという。
脳卒中などで入院し、リハビリを受けて退院しても、言葉や身体に障害が残れば、仕事への復帰や一人での外出が難しくなる。コミュニケーションを支える人や環境がなければ、そもそも街へ出ること自体が難しい。
一方で、同じ境遇の仲間や支援者がいれば、外出し、旅行し、社会とのつながりを取り戻している人たちもいるという。
見かけないのは、いないからではない。
その言葉も、心に残った。
言葉が出てくるまで待つ。本人の意思が形になるまで待つ。そして、外へ出ようとするときには隣にいる。
何もしないように見える「待つ」という行為には、相手の意思を尊重する強さがいる。
取材を終えて、支援とは何かを少し考え直した。
手を差し伸べることだけが助けることではない。
ときには、その手を出し過ぎず、相手の言葉を待つこともまた、立派な支援なのだと思う。(衛藤知愛)