8月6日は、私にとっても特別な日だ。
81年前のこの日、祖母は広島にいた。
早朝、祖母は家業を手伝うため神戸へ向かう途中だった。祖母の記憶によると、乗っていた汽車は広島の手前で何度か停車した。同乗していた軍人から「攻撃があるかもしれない」と聞かされ、そのたびに列車はしばらく動かなかったという。その後、「攻撃があったため先へは進めない」と知らされ、祖母は夜になるまで待機。どうしても翌日には神戸へ着く必要があったため、軍人と共に徒歩で広島市内を進んだ。
「夜は真っ暗で何も見えなかった。でも、水を求める声だけは聞こえた」
祖母がどこから歩き始め、どこまで歩いたのかは分からない。当時19歳。何キロ歩いたのか。夜になってから翌朝まで歩き続けたのか。それとも、途中で休んだのか。今となっては、もう確かめるすべはない。ただ、原爆に関する証言集や記録には、焼け跡のあちこちから「水をください」と助けを求める声が聞こえたことや、停電で何も見えない夜の広島を歩いた人たちの証言が数多く残されている。祖母が残した言葉は、私が読んだ多くの証言と重なっていた。
祖母があの日、何を見て、何を感じたのかを私は知らない。その日のことをほとんど語らなかった。なぜ語らなかったのか、その理由も分からない。分かっているのは、その後の祖母が、人の考えや生き方を頭ごなしに否定せず、「こうあるべき」と自分の価値観を押し付けることのない人だったということだ。家族にも自由を認め、誰かを憎む言葉を口にすることはなかった。その生き方は、私にも大きな影響を与えている。
あの半日が、その後の祖母に何を残したのかは分からない。でも、何も残さなかったとは、私には思えない。広島で過ごした半日が、祖母の人生のどこかに深く刻まれていたのではないかと思っている。
祖母がなぜあの日のことを語らなかったのか、私は結局知ることができなかった。だから、その理由を私が勝手に決めつけることもしたくない。ただ、祖母が残したわずかな言葉は、私に一つの問いを残してくれた。
取材では、どうしても語られた言葉に目が向く。でも、本当に大きな出来事ほど、人は簡単には語れないのかもしれない。あるいは、語らないという選択をすることもあるのかもしれない。
語らなかった思い。
語れなかった思い。
そんな一つ一つの背景にも、これからはもう少し丁寧に耳を澄ませていきたい。8月6日が巡ってくるたび、そんなことを考える。
(衛藤知愛)