茨木のり子 『ハングルへの旅』(朝日文庫)
6月下旬に5日間、韓国を旅した。主にソウルに滞在し、KTX(韓国高速鉄道)で大邱(テグ)にも足を延ばした。それまでの私にとって韓国は近くて遠い国だった。自宅の食卓では李朝時代(1392年~1910年)の粉青沙器や白磁の皿、酒器、茶碗を普段使いしているのだが、今隆盛を誇る音楽のことは何も知らないし、観光情報にも関心がない。興味があるのは食と古い器くらい。この状況で訪れて何をしようと思い、韓国事情をインプットするために2カ月前から旅するための読書に励んだ。読んだ本は次の通り。
・『パチンコ』ミン・ジン・リー
・『菜食主義者』ハン・ガン
・『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ
・『毎日読みます』ファン・ボルム
・『大好きな韓国』『ソウルの風景』四方田犬彦
日本統治下の韓国・釜山から大阪に渡り、差別を受け苦労しながら激動の時代を生きた在日コリアン一家を描く米国発の大河小説『パチンコ』も、何とも複雑怪奇な人と人との関係が印象的なノーベル文学賞作家ハン・ガンの連作小説集『菜食主義者』も、1982年生まれの女性の子ども時代から進学、就職、結婚を経て子を持ち、精神的に病むまでを描く『82年生まれ、キム・ジヨン』も、読後共通する感想は、韓国は女性が抑圧され生きづらい社会なのだ、ということだった(日本との比較はおいといて)。『毎日読みます』は2024年本屋大賞翻訳小説部門第1位を獲得した『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』の著者による読書エッセー。この本でも思い悩む若い女性の影が頭をよぎるのは気のせいだろうか。
評論家の四方田犬彦は1979年から1年間ソウルで生活し、2000年にもソウルに長期滞在した。『大好きな韓国』と『ソウルの風景』は滞在記で、ひと昔前のソウル市民の暮らしぶりがよく分かる。私は作家や文化人による海外の滞在記や身辺雑記を収録した本が好きで、韓国版のそんな本はないかと書店や図書館で探したが、旅のガイドブックやイラストルポはあっても読みたい物がなかった。欧州や米国だと選択肢がたくさんあるのだけど。
旅に出る直前に『ハングルへの旅』を見つけた。著者は詩人の茨木のり子。この人の『詩のこころを読む』は名著だし、「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と言い放つ詩はとても有名だ。茨木は少女時代に『朝鮮民謡選』を愛読し、30歳を過ぎた頃から「いいな」とほれ込む仏像は朝鮮系だと気付き、白磁、粉引など朝鮮の古陶磁に心を奪われるようになる。50歳から韓国語を習い始めると周りから「おそるべき晩学」と驚かれ、「隣の国のことばですもの」とわかったような、わからぬような言葉を返したという。
1926年生まれの茨木はあの戦争もリアルに体験している。「朝、鮮やか」という美しい名を持つ、北も南も含めた「朝鮮」を心から慕っている文章が始めから終わりまで続き、温かい気分になる。韓国旅の前に読んだ本では、この本が最もワクワクさせてくれた。
(児玉真路)