いつもと変わらぬ朝だった。
1945年8月15日。寺司愛子さん(93)=大分市三ケ田町=は県立第一高等女学校の2年生だった。通学のため、自宅のあった鶴崎町(現大分市)皆春から鶴崎駅へ向かい、大分駅行きの列車に乗った。空襲があれば列車は止まるが、この日は何もなかった。
通学時の服装は、上がセーラー服、下がモンペ。靴はなく、げたを履いていた。防空頭巾と救急袋も肩から下げていた。「おかしな格好。今なら考えられないでしょ」と振り返る。
この頃は授業の代わりに軍関係の勤労奉仕に出ることが多かった。正午の「玉音放送」を聞いたのは校内だったと記憶している。声が小さく、よく聞き取れなかった。
戦争が終わったと知ったが「うれしくも悲しくもない、漠然とした気持ちだった」。今まで何だったんだろう、これからどうなるんだろうと戸惑いを覚えた。
下校中、飛行機が4機ほど南の方へ飛んでいくのを見た。友人たちと鶴崎駅から歩いて帰る途中で「何で今ごろ飛んでいくんだろうね」と話をした。大分海軍航空基地から出撃した「最後の特攻」のことを後に知り、あれがそうだったのかと思い当たった。
■「世の中が明るく」
空襲におびえる日々が終わった。1週間後に夜間の灯火管制が解除され、家の明かりが外に漏れないように付けていた電灯のカバーを外した。「世の中が明るくなった」と感じた。
学校の授業も再開された。空襲で焼けた校舎に代わって工場の建物が教室だった。
物不足と食糧不足は続いた。慣れない農作業もしながら懸命に生きた。
戦中と戦後の混乱期がそのまま少女時代だった。「今は平和だなとつくづく思う。若い人たちには自由な時代に感謝して過ごしてほしい」と願う。
■その日、生きていた
自宅には戦時中の写真がたくさん残っている。元特攻隊員で版画家の夫・勝次郎さん(2015年逝去)が集めた貴重な資料だ。
学徒動員の生徒たち、空襲で破壊された工場、「最後の特攻」に臨む軍人ら―。愛子さんの姉や母校が写った写真もあり、「懐かしい…」とアルバムを眺めてつぶやいた。
日常が戦争に染まっていた時代。それを肌で知る人はもう少ない。「いつだったか、若い人に『そんなのは歴史の一部ですよ』と言われたことがある」と明かす。
「私たちはその日を生きていた。そんな時代が実際にあったことを知ってほしい」。祈るように語った。