米国を代表するプロレスラー、ハルク・ホーガンさん死去のニュースが25日未明に流れた。享年71。人気、実力ともにキャッチフレーズの「超人」そのもので、世界中で愛されたスーパースターだった。大分にまつわるホーガンさんの思い出を振り返りたい(以下、敬称略)。
■必殺のアックス・ボンバー
1980年代、ホーガンは米国から新日本プロレスに参戦していた常連の外国人レスラーで、大分県には何度も来県している。その中で印象深いのは1983年5月に県立荷揚町体育館(大分市)であった「IWGP決勝リーグ戦」の公式戦。世界一強いレスラーを決めるという壮大な構想で、アジア、北米、米国、中南米、欧州の各エリアの代表が日本に集結したシリーズの大分大会だ。
ホーガンの対戦相手は、ヨーロッパヘビー級王者として凱旋(がいせん)した若き日の前田日明(あきら)だった。今にして思えば、ものすごいカードである。試合は、当時の格の違いから、ホーガンが前田を危なげなく料理した。
ホーガンはアックス・ボンバーという必殺技で、人気を不動のものとした。「Lの字」に曲げた右腕を、相手の首から顔面あたりにたたき込む技だ。ホーガンの腕周りのサイズは60センチ近くあるといわれていたため、やられたらひとたまりもない。一直線に左腕を伸ばし、上腕部を相手の首に打ち込んで吹っ飛ばすスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアートに近いが、全く違う技だ。似て非なるものとはこのことである。ちなみに、オールドファンは「ラリアット」ではなく「ラリアート」と呼ぶことを付け加えておきたい。
■看板メニューは技が由来
アックス・ボンバーはまさに一世を風靡(ふうび)した必殺技である。大分市都町の人気店「キッチン ピーコック」の看板メニュー「ボンバーステーキ」は何と、アックス・ボンバーがネーミングの由来だ。
また、パフォーマンスでいえば、リングに入ってきた勢いそのままに、人さし指を天に突き上げて「イチバーン」と雄たけびを上げる姿がファンを魅了した。試合用の黒のショートタイツには、その「一番」の文字が書かれてあり、巡業先ではいつも「一番」とプリントされたTシャツを着ていた。そのTシャツは当時、大分ではなかなか手に入らなかったが、修学旅行先の京都の土産品店で売っているのを見つけ、色違いで何枚も買って帰ったのを思い出す。
■大分合同新聞でも報道
さて、前述のIWGP決勝リーグ戦だが、優勝戦は1983年6月2日、東京・蔵前国技館であった。勝ち残っていたのはアントニオ猪木とハルク・ホーガン。どちらが世界一強いのかが、いよいよ決まる。
実は、この試合は、プロレスファンでなくても知っている有名な一戦である。試合の終盤、場外からリングに戻ろうとして、エプロン(リングのふちの部分)に立っていた猪木に、自ら走って勢いをつけたホーガンが、アックス・ボンバーをぶち込んだのである。
猪木はその衝撃でリング下に転落。舌を出して失神してしまい、下馬評を覆してホーガンのKO勝利となった。この試合、いわゆる「猪木失神事件」は全国に衝撃を与え、大分合同新聞でも報道された。
ホーガンは日本マット界で育ち、世界最高・最強のレスラーにのし上がった。米国最大の団体WWF(現・WWE)で悪役のアイアン・シークを破り、ついに世界王者に。強いアメリカの象徴的存在として全世界に愛された。
■「イチバーン」と雄たけび
ホーガンを最後に生で見たのは2014年7月、東京・両国国技館で行われたWWE日本公演だった。在京の大分県人らと2階席に座った。ホーガンはこの日、リング上でのあいさつだけで、試合は組まれていなかったものの、入場曲が流れて花道に姿を現すと、会場内は耳をつんざくかのような大歓声に包まれた。もはや姿を見ただけで満足だ。
そして、ホーガンはリングインすると、人さし指を突き上げ、「イチバーン」と雄たけびを上げた。さすがは日本のファンが求めることを分かっている世界一のレスラーだ。シビれた。
大分市舞鶴町にあった西鉄グランドホテルは1980年代、興行でやって来た新日本プロレスの宿泊先だった。近くの高校に通っていたため、「あそこにホーガンがいる」と考えると、授業どころではなかった。青春の思い出である。
ホーガン級の傑物はこの先、マット界に現れないかもしれない。そう、永遠の「一番」なのである。安らかに。
(下川宏樹)