【空襲の記憶】7月25日 保戸島国民学校に爆撃と機銃掃射、児童ら127人が死亡

保戸島空襲の犠牲者を弔う慰霊碑=23日、津久見市保戸島

 保戸島村(現津久見市)の保戸島国民学校が米軍機から爆撃と機銃掃射を受けた。爆弾1発が校舎を直撃。児童124人と教師2人、教師の子1人の計127人が死亡し、75人が重軽傷を負った。県内で民間人の犠牲者が最も多い空襲となった。
 体験者の証言を基にした資料によると、戦闘機3機が飛来し、授業中の午前10時15分ごろに爆撃された。主要な文献には午前9時20分と記すものもあるが誤りとみられる。
 米軍の報告書には学校を攻撃したとの記載はない。
 国東町(現国東市)では国東高等女学校が空襲に遭い生徒2人が死亡した。
 (各種資料を基に、1945年の県内の空襲被害を掲載します)

■当時3年生の西田さん、悲惨な光景が今も脳裏に
 空襲当時、保戸島国民学校3年生だった西田菊人さん(89)=豊後大野市三重町内田=は「80年の月日が流れても、あの日の出来事は忘れることができない」と振り返る。
 当日は朝から警戒警報が出たため、登校したもののいったん帰宅。解除後に学校へ戻って授業を受けていた。窓側の席にいた友人が「敵機が来た」と声を上げた直後、「ドカーン」と爆弾が木造校舎を直撃した。
 落ちた場所は1階が1年生、2階が5年生の教室で、全滅状態になった。
 3年生の教室は離れていた。天井が破れ、数人がけがをした。「窓から飛び出よう」と級友に呼びかけ、約30メートル先にある頑丈な建物に逃げ込んだ。途中で機銃掃射に遭い、命を落とした児童もいたという。
 学校は悲惨な光景が広がった。「爆風で吹き飛び、バラバラになった子どもの遺体。手や足だけを持って自分の子どもを捜す親たちの姿…」。運動場には体が散らばっていた。今も脳裏に焼き付いている。
 「これからという子どもたちが大勢亡くなった」と西田さん。「弱い者がいつも泣かされる戦争は絶対にあってはならない」と強調した。

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