【空襲の記憶】7月17日 大分大空襲で焼夷弾2万発「よく生きていたな」

地図で当時の自宅を示す飯田哲朗さん。街は空襲で焼き払われた=6月24日、別府市山の手町

<別府市 飯田哲朗さん>
 真夜中の県都に2万発の焼夷(しょうい)弾が降り注いだ。太平洋戦争末期の1945年7月17日未明にあった大分大空襲。中学3年だった飯田哲朗さん(94)=別府市山の手町=は、現在の大分市都町で爆撃に見舞われた。「経験した者でないとこの怖さは分からない。よく生きていたなと思う」。街が炎に包まれた一夜を振り返った。
 都町のほぼ中央にあるジャングル公園。95年、リフレッシュ整備に伴う発掘調査で、空襲によって焼けた屋根瓦や土、炭化した木材などが地中から大量に出てきた。街が戦火で焼き払われた名残だった。
 戦時中、飯田さんは現在の公園がある場所のすぐ東隣に住んでいた。両親は料亭「菊水」を経営し、軍関係者がよく利用していた。
 45年7月16日夜、空襲警報が鳴った。「それまで空振りがずいぶんあったけど、今回はどうも本物らしいというニュースが伝わってきた」。米大型爆撃機B29の大集団が、大分市上空に迫っていた。
 焼夷弾は、ザーッという激しい雨のような音とともに落ちてきたという。「音がパッと止まると、辺りにバラバラバラッと飛んできた」と話す。
 米軍の記録によると、着弾後にゼリー状の油脂燃料が飛び散って燃焼する「ナパーム弾」が使われていた。あちこちで火が上がり、「危ない」「逃げろ」と声が響いた。

■父怒り「こんな戦争しやがって」
 空襲に備え、母と長女は幼いきょうだいを連れて別府市亀川へ身を寄せていた。大分大空襲の当日、残っていたのは飯田さんと父、次女の3人だけだった。
 焼夷(しょうい)弾の爆撃が始まり、慌てて家を飛び出した。燃えだした自宅にバケツで水をかけていると、父から「菊水を見てこい」と言われた。営んでいた料亭にも火が回っていた。自宅から150メートルほど先にあり、行ってみても火の勢いに阻まれて近寄れなかった。
 「炎がごんごん上がっている。焼夷弾もばんばん落ちてくる。それはもう怖かった」
 街に広がる炎は止めようがなかった。飛び散った焼夷弾の燃料は建物や体に付くと水をかけても消えず、紫の火が再びチリチリと燃え上がった。
 夜明けになり、まだ火が残る中を南西の大道町方面へ避難した。けががなかったのは幸いだった。自宅は全焼、菊水もほとんど焼け落ちた。「こんな戦争をしやがって」。父の怒りの声が耳に残っている。
 80年がたった今も、世界では依然として戦火が絶えない。
 「そういう国の人はかわいそうだなと心から思う。自分たちの空襲のことがまた思い出される。何で戦争をするのか。大きな国の政治家こそ考え直してほしいとつくづく思う」と胸の内を語った。

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