【大分大空襲】昭和通り交差点を「爆撃中心点」に 米軍、消火不能な大火災狙う

大分大空襲の被害エリア

 空襲の被害は広範囲に及んだ。特に現在の中央通りの西側にある中央町や都町は多数の焼夷(しょうい)弾が落ち、密集する木造建築物が焼き払われた。
 米軍は、現在の国道197号と中央通りが交わる昭和通り交差点を「爆撃中心点」に設定。消火不能な大火災を起こす狙いで、大量の焼夷弾を建物の密集地区に投下した。平均で1分間に286発余りに達した。
 使用した焼夷弾「M47A2」は公称100ポンド(約45キロ)、長さ約1・2メートル。直撃地点での貫通力や爆発性が比較的強いタイプだった。他都市の空襲で多かった、空中で複数に分かれる「集束弾」は用いなかった。
 米軍は戦後、爆撃の効果を現地調査。1・09平方キロを火災で破壊したと判定した。他の都市と比べて死傷者数は少なく、調査団はその理由として、空襲前に雨が続いていたことや、事前に多くの女性や子どもが避難していたことを挙げた。

■各地の中小工業都市を攻撃対象に
 B29爆撃機を運用するサイパン島などマリアナ諸島の米軍部隊は、1945年6月中旬までに大都市への攻撃を一通り終え、各地の中小工業都市に狙いを切り替えていた。
 四つの航空団を同時に動かし、一晩に4都市を爆撃する作戦を展開。7月16~17日は9回目の作戦で▽大分市▽三重県桑名市▽静岡県沼津市▽神奈川県平塚市―を襲った。
 米軍はこの頃、人口規模をベースに東京を筆頭とする全国180都市を順位付けしたリストを作っていた。大分県内は▽大分(63位)▽別府(77位)▽日田(137位)▽佐伯(155位)▽中津(174位)―が挙がっていた。
 空襲は必ずしも順位通りではなく、軍需工場の有無なども考慮して目標を選んだ。既に打撃を与えた大都市や、原爆投下の候補地などは目標から外された。

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 大分市の人口密集地が無差別空襲を浴びた「大分大空襲」。戦中・戦後の本紙掲載記事のほか、主に次の文献を参考にした。
 ▽大分市警防課「防空実施日誌」(1945年)=国立国会図書館デジタルコレクションより▽「大分県警察史」(63年、86年)▽大分の空襲を記録する会編「大分の空襲」(73年連載、75年出版)▽奥住喜重、工藤洋三著「米軍資料 大分空襲の記録」(99年)

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