戦死した兄の命日、今年も開けるパイナップルの缶詰 大分市の神志那さん「思い出が詰まった味」

戦死した兄の遺影を見つけ、「かわいがってくれた兄の笑顔が浮かんできた」と話す神志那ヒロミさん=4月27日、大分市牧の県護国神社

 「この写真は初めて見た。かわいがってくれた兄の笑顔が急に浮かんできた」
 大分市の神志那(こうじな)ヒロミさん(89)は4月27日、同市牧の県護国神社で、戦没者の遺影をまとめたアルバムの中に亡き長兄を見つけた。1944年のこの日、南西諸島沖で戦死した山口一郎さん(享年19)。旧日本海軍の2等主計兵曹だった。
 神社で営まれた命日祭に参列した神志那さんは、「一郎兄ちゃん」をしのんで静かに手を合わせた。
  
 悲報を聞いたのは、暑い日だったと記憶している。当時、大分市の萩原国民学校初等科(小学校)の3年生。突然、母が学校まで迎えに来た。
 連れられて下校する途中、一郎さんが亡くなったと知らされた。戦死の通知が昼前に自宅へ届いたという。
 すぐには理解が追い付かなかった。「死んだ、という言葉に対する悲しさはあったと思うけど、受け入れることはできなかった」と振り返る。
 自分の手を引く母を見つめながら、ただただ歩いた。母は両目に涙を浮かべて「一郎が死んだ…」と繰り返し口にした。
 その後、戦没者の合同葬に親子で参列した覚えはあるが、はっきりとしない。ただ思い出すのは、その帰り道で会った人たちが皆、深く頭を下げて合掌する姿だ。その様子に接して、初めて兄の死を実感した。
  
 「きょうだいの中で一番かわいがってくれた」という一郎さん。一緒に過ごした時間は短いものの、温かい思い出は鮮明に残っている。
 神志那さんは6歳の頃、やけどの手術で福岡の大学病院に1年ほど入院していた。一郎さんは毎週のように、所属する佐世保(長崎県)の海軍基地から見舞いに来てくれた。
 手土産はいつも、当時は珍しかったパイナップルの缶詰だった。軍の支給品だったのだろうか。軍服姿で食べさせてくれた兄の笑顔は、今も神志那さんの胸の中で輝いている。
 命日祭を終え、神社から帰宅した神志那さんは、用意していたパイナップルの缶詰を開けた。兄の命日には毎年必ず食べている。「思い出が詰まった特別なこの味は、何年たっても変わらない」と話す。
 缶の中から皿に取り出し、在りし日の兄を思い返しながら口に入れた。
 「一郎兄ちゃん、ありがとう。おいしいよ」

■県出身の戦没者4万人超
 県と県護国神社によると、1937~45年の日中戦争と太平洋戦争で亡くなった県出身の戦没者は4万1499人に上る。特に、戦局が著しく悪化した44、45両年で全体の7割に及ぶ約2万9千人が命を落とした。
 40年に実施された国勢調査では、県内の人口は97万2975人。この数字を基に推計すると、県民のおよそ23人に1人が従軍先などで死没し、帰らぬ人となった。各市町村では合同葬がたびたび営まれた。
 戦没者は軍人・軍属らが対象で、空襲などで犠牲になった一般人は含んでいない。

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