県内で米大型爆撃機B29の2機が撃墜された。
中津市三光の八面山には、日本軍の戦闘機「屠龍(とりゅう)」の体当たりを受けた1機が墜落。佐伯市弥生宇藤木の山中にも、戦闘機「紫電改(しでんかい)」の攻撃により1機が落ちた。合わせて米兵22人(処刑された捕虜を含む)と日本兵1人が死亡した。
大分市の大在地区はB29の編隊から時限爆弾を交えた爆撃を受けた。上志村(同市志村)の集落で約10人が亡くなった。
(各種資料を基に、1945年の県内の空襲被害を掲載します)
■大在に爆撃、時限爆弾で家がこっぱみじん
空襲体験者の証言を本紙連載企画「大分の空襲」(1973年8~9月)から再掲します。
<大在村(現大分市)>
その日も警報が鳴って、上志村警防団副団長の佐々木久喜さんらは上志村集落の四辻に詰めていた。もうそのころは団員も数少なくなって、当日は六人が出動していた。
世間話をしていると、列車が通過するような音、続いて下の火の見やぐらが早鐘をつき出す。同時に落雷のような音がしたかと思うと、突然、あたりが真っ暗やみになってしまった。至近弾をくらったのだ。
夢中だったが佐々木さんは団員の水田さんの上におおいかぶさって伏せていた。ほんの一瞬だったろうが、息が詰まって胸が痛くなる。それもそのはず、佐々木さんの自宅を含めて、あたりの家四軒がふっとび、ものすごいほこりが渦巻いていたのだ。
ふと気づくと、腹の下でうめき声がする。水田さんが血まみれになっている。抱き起こしてみると、大腸あたりを撃ち抜かれて、もう瞳孔が開いていた。
遺体を運びかかると、だれかが佐々木さんの首を見て「おじさん、首から血が…」という。たいしたことはない。かすり傷だ。
そうこうしていると、ふっとばされた母屋の兄嫁が、「静江、静江はおらんかっ」とわめきながら母屋の回りをぐるぐる回っている。「静江がこの中に…」と血を吐くような声。
その日はたまたま目をわずらって学校を欠席していたそうだ。二階屋が根こそぎ吹き上げられてそのまま落ちたんだから、助かろうはずがない。静江さんはかわいい死顔で息絶えていた。
その裏の岡崎さんの家では、大在の軍需工場に出勤しているはずの養子が意外にも、つぶれた離れから遺体となって見つかった。急な出張命令で工場から着替えに自宅に帰ったところを被爆したのだ。
納屋では馬が目玉をえぐりとられて倒れている。百メートルほど離れた佐々木奥太郎さんも家もろとも吹きとばされ爆死した。
宮はずれに下志村に通ずる村道がある。舞子ケ浜に行く細道だが、この線路寄りの畑の中の農家もやられ、三人が即死した。
あまりの惨状に、みんなぼう然と手をこまねいていると、今度は時限爆弾が噴き上げ始める。山の手の農家あたりからドロドロ爆発音がするかと思うと、今度はすぐ近くでドドンとくる。
こいつはあまり姿はわからないし、いつ爆発するか予想もつかないので始末が悪い。このため、鶴崎橋から大在踏切までが交通しゃ断となった。
線路端に林さんという一軒の農家があった。ここも被爆したはずだがと行って見ると爆破された様子はない。天井に穴があき、そこいらの障子やガラスが割れている程度。この家に五、六人の警防団員が詰めて被爆のおそろしさを話し合っていると、一人の団員がとび込んで来た。
その団員は天井の穴と団員たちの足元をじっと見比べていたが、「わかった。これが時限の目だ。このサラ型のへこみを見ろ」とさけぶ。何とみんなは時限爆弾の上で立ち話をしていたのだ。この時限も夕方になって噴き上げ、家はこっぱみじんになった。
(原文を一部修正、省略しています)