米大型爆撃機B29の編隊が初めて県内を空襲した。
大分市の大分海軍航空基地が目標になった。翌28日付の大分合同新聞は、飛行中の編隊を撮った写真を掲載。4回にわたって各9~10機が来襲したと記した。
「大分県教育百年史」によると、県立盲唖(もうあ)学校(当時)は卒業式の日だった。卒業生代表の答辞の途中で退避の信号が鳴り出し、一斉に防空壕(ごう)へ。「退避が終わると同時にズシーンという音と共に爆撃が始まった」
大分市警防課の日誌は、市内の牧区と中島区で住民5人が死亡、住宅など112棟が焼失・全半壊したことを記録。航空基地の被害は明らかでなく「格納庫、飛行機少数炎上ヲ認ム」と記すにとどまっている。
(1945年の空襲があった同じ日付の紙面に、県内の被害を掲載します)